「誰も見ていないのに、なぜかサボれない」― フーコー『監獄の誕生』が見抜いたもの
監視されていなくても、人は自分を監視し始める
こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。
リモートワークになってから、こんな話を耳にするようになりました。
「誰も見ていないのに、なぜかサボれない」
「上司が監視ツールを入れてきた」
「実害があるわけじゃないのに、なんだか嫌だ」
これらの違和感の根っこには、同じ問いがあります。「監視」と「自分の行動」の関係です。その感覚の正体を、20世紀に哲学的に深掘りした人がいます。フランスの哲学者、ミシェル・フーコーです。
知識と権力を問い続けた哲学者
ミシェル・フーコーは1926年、フランスのポワティエに生まれました。父は外科医でしたが、本人はやがて哲学・心理学・精神医学へと感心を移していきます。パリのノルマル高等師範学校で学んだのち、精神病院での勤務も経験しました。この現場での体験が、「正常」と「異常」の線引きはどこから来るのかという問いにつながっていきます。
フーコーの著作はどれも、「私たちが当たり前だと思っているルールや知識は、誰がどんな目的で作ったのか」という問いに貫かれています。『狂気の歴史』では「正常」と「狂気」の線引きがどう生まれたかを問い、『言葉と物』では近代的な知の構造を解体しました。そして1975年に発表した『監獄の誕生』では、近代社会における「権力と身体」の関係を正面から論じました。1984年にエイズで亡くなるまで、権力の働き方を問い続けた哲学者です。
この連載の流れで言えば、サルトルが「自由な主体」を語り、レヴィ=ストロースが「構造の中の人間」を語ったあとで、フーコーはさらに問いを進めます。「その構造やルールは、そもそも誰が、何のために作ったのか」と。フーコーは「構造主義を否定した」と言われることもありますが、正確には構造主義の問いを引き継ぎながら、また別の地平へ出ていった人です。
監獄から社会を読んだ ― 『監獄の誕生』とは
タイトルに「監獄」とありますが、この本が本当に語っているのは近代社会そのものです。
18世紀以前、犯罪者への罰は「身体への刑罰」が中心でした。公開処刑、拷問、見せしめ。権力は身体を痛めつけることで存在を示したわけです。罰は「見られること」によって成立していたんですね。
ところが近代に入ると、刑罰のあり方が大きく変わります。「身体を傷つける」から「行動・習慣・精神を矯正する」方向へ。「更生させる」という言葉のもとに、人間を作り変えようとする権力の形が生まれたんです。
囚人は規則正しい時間割で起き、食事をし、労働し、就寝する。同じ動作を繰り返させ、身体に規律を染み込ませる。一人ひとりの行動が記録され、評価され、分類されていく。罰の目的が「痛みを与えること」から「正しい身体を作ること」へと変わったのです。
そしてフーコーが言うのは、この構造は監獄だけの話ではない、ということです。学校、病院、軍隊、工場。近代に生まれたあらゆる制度が、似たような規律の仕組みを持っていると彼は指摘します。
パノプティコン ― 「見られているかもしれない」だけで十分
『監獄の誕生』でフーコーが取り上げたのが、「パノプティコン(一望監視施設)」という概念です。
18世紀のイギリスの思想家ジェレミー・ベンサムが考案したこの設計は、こんな構造をしています。中央に監視塔があり、その周囲に囚人房が円形に並び、監視塔からはすべての房が見えます。でも囚人の側からは、監視塔の中に人がいるかどうか見えないという構造です。
ここが核心です。「見られているかどうかわからない」状態が続くと、囚人はやがて「つねに見られているかもしれない」と思い込んで行動するようになります。実際に誰かが見ていなくても、です。
やがて囚人は、自分自身の監視者になる。監視塔に人を置く必要すらなくなる。権力は外から押しつけられるものではなく、人間の内側から自発的に機能するようになる。これがフーコーの言う「規律権力」の本質です。直接的な暴力や命令ではなく、監視の構造そのものが人間の行動を作り変えていくというわけです。そしてその構造が、近代社会のあらゆる場所に埋め込まれているとフーコーは言いました。
評価・KPI・リモート監視の中のフーコー
ここで現代の話に引き寄せてみましょう。
「リモートワーク監視ツール」。上司はいつでも作業ログやスクリーンショットを確認できる。それを知るだけで、社員の行動は変わります。誰かが実際に見ているかどうかは関係ない。「見られているかもしれない」という意識だけで、人は動く。これはパノプティコンを思わせる構造があります。
「KPI(重要業績評価指標)と評価制度」。数値で人を測ることは、同時に「どんな人間であるべきか」という型を作ることでもあります。売上で評価されれば、人は売上に最適化した動き方をする。工数で管理されれば、工数の見せ方を工夫するようになる。測られる指標が、行動だけでなく、考え方や「自分はこういう人間だ」という自己認識まで変えていく。評価制度は人を「測る」だけでなく、人を「作り変えている」のです。
「学校の成績と通知表」。知識を教えながら、規律を守らせ、時間割に従わせ、序列をつける。これは「学力を測る」だけでなく、「評価される身体」を育てるプロセスでもあるんです。フーコーの目には、学校も近代的な規律装置のひとつに映りました。
フーコーが「従順な身体(docile bodies)」と呼んだのは、こういうものです。規律と監視を内面化し、自ら進んでその型にはまっていく身体。それは強制ではなく、気づかないうちに自分の一部になっている。「自分の意志で頑張っている」と思っているものも、じつは「そう思うように形づくられてきた」部分があるのかもしれない。フーコーはそこに目を向けさせます。
問い直すことが、出発点
「このルールはなぜこういう形をしているのか」
「この評価制度は誰のために作られたのか」
「自分が当たり前だと思っていることは、いつから当たり前になったのか」
問題は、監視があることそのものではなく、それが「当たり前」に見えてしまうことだ。フーコーはそう言っているのだと思います。ルールや制度の成り立ちを問える人間は、それに無自覚に従うだけの人間とは少し違う場所に立てる。そういう問いを持てること自体が、見えない権力を可視化する第一歩になります。
アーレントが「自分の思考を放棄するな」と言い、サルトルが「自ら選ぶことから逃げるな」と言い、レヴィ=ストロースが「手元のもので組み立てることを恐れるな」と言ったなら、フーコーはこう言っているのかもしれません。「自分を縛っているルールの成り立ちを、問い直せ」と。
4人はそれぞれ違う問いを持っていたけれど、どこかで同じものを恐れていたのだと思います。それは「考えることをやめること」、です。
今日もし、「なぜ自分は今これを頑張っているのだろう」と疑問に思ったら、哲学者たちの言葉をヒントにして、その努力を支えているルールや制度の成り立ちを、一度問い直してみる。そこが、新しい出発点になるのかもしれません。
おしまい。
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