「AIを使うと人間はダメになる」は本当? ― 何千年も続く新技術へのクレーム史
新しい道具が出るたび、同じ心配をしてきた人類
こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。
最近、ニュースでもSNSでも「AI」の話題を見ない日はありませんよね。文章を書き、絵を描き、プログラミングまでこなしてしまうAIの急速な進化を前にして、こんな声をよく耳にするようになりました。
「AIに頼りきりになったら、人間の思考力は落ちてしまうのではないか」 「自分で考えない人間ばかりになり、人類はダメになってしまう」
たしかに、これだけ便利なものが手元にあれば、僕たちが自力で頭を使う機会は減っていくのかもしれません。AIの登場によって、人間は本当に「劣化」してしまうのでしょうか?
実は歴史を振り返ってみると、こうした「新しい便利な技術の登場」に対して「これで人間はダメになる!」と警鐘を鳴らすのは、何千年も前から繰り返されてきた人類の「お決まりのパターン」だったりします。
今日は、そんな「新技術アレルギー」の歴史を紐解きながら、僕たちがAI時代に本当に恐れるべきものは何なのかを考えてみたいと思います。
ソクラテスも激怒した「文字」という新技術
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、「文字」というものをかなり警戒していました。
現代を生きる僕たちは、本を読み、文章を書くことに知性を感じますよね。しかし、ソクラテスが生きた時代、普及し始めていた「文字」という最新技術に対して、彼は猛烈に反発しました。弟子のプラトンが書き残した対話篇『パイドロス』の中で、ソクラテスはこう語っています。
「文字などに頼れば、人々は物事を記憶しようとしなくなり、魂の中に忘却が芽生えるだろう。彼らは自ら知恵を育む代わりに、外側に書かれた符号に頼るようになる。それは知恵ではなく、知恵のまがいものだ」
驚くべきことに、彼は「文字を書くこと、読むこと」が、人間の記憶力を破壊し、知性を堕落させると本気で危惧していたのです。
ソクラテスの時代、知識とは「人と人との生きた対話」の中で記憶され、魂に刻まれるべきものでした。それを外部の「文字」という記録媒体にアウトソーシングすることは、人間としての能力の放棄に他ならないという考えだったのですね。
しかし、歴史が証明している通り、文字という技術は人間をダメにするどころか、後世に知識を伝え、科学や文化を爆発的に発展させる原動力になりました。
ここで面白いのは、ソクラテス自身が文字を一切残さなかったという事実です。彼の言葉が2400年後の僕たちに届いているのは、弟子のプラトンが文字で書き留めたおかげです。そうでなければソクラテスの知恵はとうの昔に霧散していたはず。
「文字は記憶を殺す」と言った人物が、文字によって後世に届いているのは歴史の不思議なところですね。
印刷機が生まれたとき、人々が恐れたこと
時代が進んで15世紀、グーテンベルクが活版印刷機を発明します。本が大量に作られ、知識が広く流通するようになったこの発明を、現代の私たちは「革命的な進歩」と呼びます。
ところが当時の知識人たちの反応は、必ずしもそうではありませんでした。「本が簡単に手に入るようになると、人は自分の頭で考えなくなる」「粗悪な情報が氾濫し、社会の秩序が乱れる」「写本師たちの神聖な仕事が奪われる」といった声が次々と上がりました。
特に面白いのは、ヨハネス・トリテミウスという修道院長のエピソードです。彼は『写本師の賛辞』という本を書き、「手書きで写すという行為こそが魂を磨くのであり、印刷は安っぽく、永続性がない」と猛烈に批判しました。
しかし、彼はその主張をより多くの人に伝えるために、わざわざその本を印刷して出版したのです(1494年刊行)。 批判しながらも、その利便性に抗えなかったのですね。
情報が増えすぎることへの不安は、15世紀にもあったのです。今日のインターネットやSNSに向けられる批判と、構造がほとんど変わらないことに気づくと、少し考えさせられます。
計算機、ワープロ、そして漢字を忘れた日本人
20世紀に入ると、道具の進化はさらに加速します。
電卓が普及したとき、「これで人間は暗算ができなくなる」という声が上がりました。ワープロが広まったとき、「漢字を手で書く能力が失われる」と言われました。実際、ワープロやパソコンが普及してから、手書きで漢字を思い出せない経験をする人は増えたと思います。僕自身も、たまに手書きで文字を書くときに画数の多い漢字が思い出せず、スマホで確認することがあります。暗算も苦手ですしね。
でも同時に、電卓のおかげで、人類は「単純な計算」から解放され、より高度な数理モデルの構築や宇宙開発に脳のリソースを割けるようになりました。ワープロのおかげで、手書きの苦労に阻まれていた多くの才能が、執筆という表現活動に参加できるようになりました。
何かが失われ、何かが生まれる。その繰り返しが、道具の歴史なのでしょう。
テレビ、ゲーム、インターネット、スマホの誕生
その後も、新しい道具が登場するたびに似たような議論は続きます。
ラジオ、テレビが普及したときは「受動的な視聴が人間性を損なわせる」と懸念され、社会評論家の大宅壮一は「テレビの低俗な番組が国民の想像力や思考力を低下させる」と指摘、「一億総白痴化」という言葉まで誕生し、当時の流行語となりました。
テレビゲームが登場したときは「暴力性を育む」「廃人が増える」と言われました。インターネットが広まったときは「情報を鵜呑みにする人間が増える」と言われ、スマホが普及したときは「集中力が失われる」「人と話せなくなる」などと言われました。現在、SNSには「承認欲求の塊を生む」という批判が向けられています。
僕がイラストレーターとして仕事を始めた24年前は、ちょうどアナログからデジタルへの過渡期だったので、当時は「デジタルで描くなんて、本当の絵じゃない」「Illustratorのベジェ曲線には温かみがない」「Ctrl+Z(取り消し)ができる道具を使っていたら、一筆の重みを忘れて下手になる」という声が、プロの現場でもよく囁かれていたんです。
こうして並べてみると、批判の構造がほぼ同じであることに気づきます。「新しい道具によって、人間の大切な何かが失われる」という恐怖です。
このブログでも以前紹介した名著『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』には、人間には「ネガティブ本能」があるという指摘があります。僕たちは、世界が良くなっているポジティブな変化よりも、悪くなっているというネガティブな情報に過剰に反応してしまう生き物なのですね。
新技術のあとに来るのは「能力の再配置」
これらの批判は、半分は的外れですが、半分は当たっているのだと思います。道具は確実に僕たちの行動を変えます。でも、それは「能力が失われた」のではなく「能力の配置が変わった」のだと考えるほうが、歴史の実態に近い気がします。
文字ができて、人間は長い物語を記憶しなくてよくなりました。でも代わりに、文字によって遠く離れた人と考えを共有し、何百年後の人間に思想を伝えることができるようになりました。
印刷機によって、知識の独占を解き、大衆の「議論」を加速させることができたし、電卓ができて、暗算の必要は減りました。でも代わりに、もっと複雑な問いに向き合う時間が生まれました。
インターネットによって、検索の速さを手に入れ、知識を「つなぎ合わせる力」を養ったのはもう言うまでもありません。
何かが外部化されるとき、人間の中では別の何かが動き始める。そういうことが、道具の歴史では繰り返されてきたように思います。
「便利な文房具」に魂まで明け渡さないために
ソクラテスが恐れたように、僕たちはAIに頼ることで、たしかに何かを失っていくのかもしれません。ゼロから文章を組み立てる筋力や、時間をかけて情報を探す忍耐力は、少しずつ弱っていくでしょう。
それは、自動車を手に入れたことで、昔より長距離を歩く健脚を失ったとのと、少し似ている気がします。
でも、自動車に乗るようになったからといって、人間が「どこへ向かうか」を考えなくなったわけではないように、AIにも同じことが言えるのかもしれません。
AIを使うと人間はダメになるのか。
たぶん、その答えは、AIを「便利な文房具」として使うのか、それとも「自分の代わりに行き先まで決めてくれるご主人様」にしてしまうのかで大きく変わってくるのでしょう。
文字やワープロが生まれたときも、先人たちは失うものを恐れながらも、新しい道具を使って、それまでになかった文学や思想を生み出してきました。たぶん僕たちも同じです。
AIに面倒な作業をアウトソーシングして、空いた頭のスペースで何を考えるのか。どんな問いを立てるのか。そこに、その人らしさが残るのだと思います。
効率のいい答えや、整った説明は、これからますますAIが得意になっていくでしょう。
だからこそ人間には、少し不器用で、熱っぽくて、迷いながらでも「自分で問い続けること」が残るのかもしれません。
AIが人間をダメにするのではなく、人間のほうが、自分で考えることをどこまで手放してしまうのか。本当に怖いのは、案外そちらなのかもしれませんね。
おしまい。
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