作品はいつから「作者のもの」になったのか ― 著作権の歴史
描いた瞬間から、作品は守られる?
こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。
僕はイラストで生計を立てています。絵を一枚描くと、その瞬間に著作権が自然発生します。役所への登録も、申請書も、手数料も要りません。皆さんが撮ったスマホの写真も、書いた文章も、創造性があれば、完成した瞬間から、あなたのものです。
現代人には当たり前すぎて、空気のような話です。
でも歴史をさかのぼると、この「当たり前」はまったく当たり前ではありませんでした。作品が「作者のもの」とされるまでには、印刷業者の争いと、海賊版との果てしない戦いと、500年におよぶ制度の試行錯誤があったのです。
しかも面白いことに、著作権のご先祖様は、元をたどれば作者を守るための制度ですらありませんでした。
今日は、僕たちクリエイターの飯のタネである著作権が、どこから来てどこへ向かっているのかというお話をしたいと思います。
写本の時代、コピーは文化を残す仕事だった
まず、著作権が存在しなかった時代の話から。
印刷術が生まれる前、本は一冊ずつ手で書き写すものでした。修道士が羊皮紙に何か月もかけて聖書を写す。学者が古典を書き写して弟子に伝える。一冊写すのに膨大な時間と費用がかかるので、今日のように、無断コピーが短期間で大量に出回り、市場を奪うという問題は起こりにくかったのです。
それどころか、写すことは文化を残す善行でした。誰も写さなければ、その作品は火事や戦乱とともに永遠に消えます。古代ギリシャ・ローマの古典が現代まで残っているのは、名も知らぬ写字生たちがコピーし続けてくれたおかげです。
コピーが問題になるのは、コピーが「簡単」になってからです。そしてその日は、15世紀にやってきました。
グーテンベルクが「コピー」を商売にした
15世紀半ば、グーテンベルクの活版印刷術が登場します。同じ本を、速く、大量に、比較的安く複製できる。出版という産業の誕生です。
ところが、ここで新しい問題が生まれました。
ある印刷業者が、資金をつぎ込んで活字を組み、職人を雇い、苦労して一冊の本を世に出したとします。その本が売れると、何が起きたか。別の業者が、売れているその本をそのまま刷って、安く売り始めたのです。版を起こす開発費ゼロ、売れる保証つき。海賊版業者のほうが、どう考えても儲かる構造でした。
これでは誰も最初の一冊に投資しなくなります。困った印刷業者たちが頼ったのが、国家権力でした。
1469年、出版先進地だったヴェネツィア共和国は、ドイツから来た印刷業者ヨハネス・フォン・シュパイアーに、5年間の印刷業の独占特権を与えます。これが著作権の源流のひとつとされる出来事です。
お気づきでしょうか。ここで守られたのは、本を書いた作者ではありません。印刷に投資した業者です。著作権のご先祖様は、作家の権利ではなく、印刷屋の営業許可だったのです。
国家はこの仕組みが「検閲に便利」だと気づいた
この独占特権の仕組みは、ヨーロッパ各国に広がります。イギリスでは出版業者の組合が印刷権を握りました。
そして権力者たちは、あることに気づきます。「誰が何を印刷してよいか」を国が握るこの仕組みは、都合の悪い本を刷らせないための道具としても使える、と。
海賊版の取り締まりと、思想の検閲。出版統制はこの二つの顔を持つ制度として運用されていきました。つまり著作権の祖先は、表現の自由を守る制度どころか、印刷業者の商売と国家の秩序を守る制度だったのです。
1710年、アン法 ― 作者が権利の出発点になった
転機は1710年、イギリスで成立した通称「アン法」です。当時の女王アンの名を冠したこの法律は、現代的な著作権法の出発点とされています。
画期的だったのは、国家が個別に与える特権ではなく、作者を権利の出発点として法律に明記したことです。書いた本人が、自分の作品の複製について一定期間の権利を持ち、それを出版業者へ譲ることもできました。
「作品を作った者に、法律上の権利が生まれる」。現在の著作権につながる仕組みが、ここで初めて一般的な法律の形になったのです。
そしてもうひとつ、アン法には見逃せない設計が仕込まれていました。権利に期限を付けたことです。
永遠の独占は認めない。一定期間が過ぎたら、作品は社会みんなのものになる。なぜか。作者に創作の報酬を保証しつつ、文化そのものはいつか社会全体で共有できるようにするためです。
これは現代まで続く著作権の重要な設計思想です。著作権は「作者を永久に守る制度」ではなく、創作者の利益と文化の共有を両立させる、期限付きの約束なのです。シェイクスピアもベートーヴェンも葛飾北斎も、今は誰でも自由に上演し、演奏し、出版できます。保護期間を終えた作品たち、いわゆるパブリックドメインは、人類共有の巨大な文化の貯水池になっています。
僕がちょい歴で歴史上の人物のイラストを自由に描けるのも、この貯水池のおかげとも言えますね。
国境を越えろ ― ベルヌ条約と、怒れる文豪
19世紀、次の問題が起きます。本が国境を越え始めたのです。
自国でいくら守られても、外国で勝手に翻訳・複製されれば手の打ちようがありません。この時代、フランスの文豪ユーゴーらが国際的な保護を訴える運動の先頭に立ち、1886年、スイスのベルヌで国際条約が結ばれます。世に有名な「ベルヌ条約」です。
この条約の原則が、現代の僕たちの「当たり前」を作りました。ひとつ、外国人の作品も自国民と同様に守ること。ひとつ、登録などの手続きなしで、創作した瞬間に自動的に保護されること。
ここで冒頭の話を思い出してほしいのです。僕が絵を描いた瞬間に著作権が発生し、どこにも登録しなくていいのは、140年前のこの条約の系譜なのです。
ベルヌ条約では「著作者の生存期間+死後 50 年を最低保護期間」と定めています。
ちなみにアメリカは、長いあいだこの条約に入りませんでした。19世紀のアメリカは、イギリスの人気作家の海賊版を刷りまくる「海賊版大国」で、小説家のディケンズが猛抗議したことでも知られます。今は著作権の守護者のような顔をしているアメリカも、新興国時代はコピー天国だったんですね。アメリカがベルヌ条約へ加盟したのは1989年でした。
国が豊かになり、守るべき自国作品が増えると、途端に著作権に厳しくなる。この皮肉なパターンは、歴史上何度も繰り返されています。
日本へ来た著作権 ― 福澤諭吉が広めた「版権」
では、日本はどうだったのでしょうか。
江戸時代の出版界にも、版元の権利を業界内で調整する仕組みはありましたが、近代的な著作権が入ってくるのは明治です。「コピーライト」という概念を「版権」という言葉で紹介し、広めたのは福澤諭吉とされ、自著の海賊版に悩まされた彼は、その取り締まりにも奔走しました。
明治2年の出版条例を経て、1899年に著作権法が制定され、日本はベルヌ条約に加盟します。日本の作品が外国で守られ、外国の作品が日本で守られる国際的な枠組みに、この時から日本は入っているわけです。
ちなみに日本はその後、TPP11発行に伴う法改正により、2018年12 月30 日から保護期間が「死後50年」から「死後70年」に延長され、今に至ります。
そして今、「コピーとは何か」が再び問われている
こうして歴史を見てくると、ひとつのパターンが浮かび上がります。
新しい複製技術が現れるたび、著作権は揺さぶられてきたのです。
印刷機が本の大量複製を可能にし、写真は機械が作った像を著作物と呼べるのかを問い、レコードは演奏を固定して繰り返し売ることを可能にしました。コピー機、ビデオ、インターネットも、そのたびに権利の境界線を揺らしてきました。
そのたびに「どこからが複製なのか」「誰の権利がどこまで及ぶのか」を制度に突きつけてきました。著作権法の歴史とは、複製技術との追いかけっこの歴史です。
そして現在、生成AIをめぐる議論が世界中で起きています。学習は複製なのか。AIの出力は誰のものか。まさに今、僕たちは500年続く問いの最新版の中にいます。
答えはまだ出ていませんが、歴史が教えてくれるのは、印刷機のときも写真のときも、社会は時間をかけて新しい線引きに辿り着いてきた、ということです。
最後に ― 囲い込むためではなく、回すための仕組み
著作権は、「真似するな」と文化を囲い込むためだけの制度ではありません。
創作者が次の作品を作れるだけの利益を守る。そして期限が来たら、作品を社会全体の貯水池へ返していく。この二つを両立させるために、人類が500年かけて調整し続けてきた仕組みです。印刷屋の特権から始まり、作者の権利になり、国境を越え、今はAIと格闘しています。まだ完成していない、育ちつつある制度なのです。
一枚の絵を描くたび、僕の手元には自動的に権利が生まれます。その静かな「当たり前」の中に、ヴェネツィアの印刷屋の嘆願と、アン女王の法律と、怒れる文豪たちの闘いが折りたたまれているんですね。
そう思うと、著作権という無味乾燥な四文字が、少しだけ体温を持って見えてくるのではないでしょうか。
おしまい。







