「私の個人主義」はなぜ今も刺さるのか ― 夏目漱石が語った”自己本位”のすすめ
「自分らしく生きる」が難しい時代に
こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。
「自分らしく生きよう」という言葉は、今ではあちこちで聞かれます。
でも、実際に自分らしく生きるのは、なかなか難しいものです。人の評価、世間体、肩書き、収入、SNSの反応。自分で選んでいるつもりでも、気づけば他人の価値観で自分を測っていることがあります。
そんな時代に読み返すと、夏目漱石が100年以上前に語った「私の個人主義」という講演は、不思議なくらい現代的です。
夏目漱石について
夏目漱石は1867年、江戸の牛込(現在の東京都新宿区)に生まれました。本名は夏目金之助。明治維新の前年に生まれ、日本が近代国家へと激変していく時代を生きた人物です。
東京帝国大学で英文学を学び、英語教師を経て、国費留学生としてイギリスへ。帰国後は東京帝国大学の講師を務めながら、『吾輩は猫である』で小説家デビューを果たします。その後、朝日新聞社に入社して職業作家となり、『坊っちゃん』『三四郎』『こころ』など、今も読み継がれる作品を次々と発表しました。1916年、49歳で亡くなっています。
ちなみに「漱石」というペンネームには、面白い由来があります。中国の故事「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」から取ったものです。
昔、中国のある人物が「石を枕にして、流れに漱(くちすす)ぐ」と言うべきところを、間違えて「石に漱ぎ、流れを枕にする」と言ってしまったんですね。間違いを指摘されると、彼は「オレが石で口を漱ぐのは歯を磨くためで、流れを枕にするのは耳を洗うためなんじゃ!」と強引に言い張ったというんです。その故事から「漱石」は、負け惜しみが強く、頑固な変わり者を意味する言葉になりました。
夏目漱石は、この「負け惜しみの強い頑固者」という意味の言葉を、自分のペンネームとして選ぶほど、頑固者を自負していた人物だったんですね。
『私の個人主義』は、若者に向けた講演だった
『私の個人主義』は、1914年に漱石が学習院で行った講演の記録です。聴衆は学生たち。つまりこれは、人生の進路に悩む若者たちに向けて、晩年の漱石が自分の人生経験を率直に語ったものでした。
この講演で漱石が語ったのは、成功者の自慢話ではありません。むしろその逆で、自分がいかに迷い、苦しんだかという話から始まります。
漱石は、最初から「自己本位」で生きていたわけではなかったのです。英文学を専攻したものの、自分の中に確信が持てない。何かを成し遂げた気がしない。「まるで嚢(ふくろ)の中に詰められて出ることのできない人のような気持ち」だったと、漱石自身が語っています。
ロンドンで壊れかけた漱石
その迷いが極限に達したのが、ロンドン留学でした。
1900年、漱石は国費留学生としてイギリスへ渡ります。国の期待を背負い、西洋文学を学ぶための留学です。しかし彼はそこで、激しい孤独と不安に襲われます。
西洋文学を学びに来たのに、「そもそも文学とは何か」がわからない。イギリス人の批評をそのまま受け売りすることに、意味を見いだせない。誰かの評価を暗記して、それを日本に持ち帰って教える。それは学問なのか。自分は何をしているのか。
異国の生活に適応しにくく、周囲の人間関係でも自尊心を傷つけられる経験が積み重なったとも語られています。ロンドンは当時かなり物価が高く、漱石は本や観劇に出費しながら、だんだん資金面でも苦しくなっていきました。
異国での孤独と疎外感、それに経済的不安がかさなり、下宿に閉じこもりがちになった漱石について、「夏目は発狂した」という噂が文部省に届いたとも言われています。
西洋を学べと言われた日本人が、西洋の中で自分の足場を失った。これが漱石のロンドンでした。
でも、このどん底で漱石はひとつの言葉を掴みます。それが「自己本位」でした。
これは、世間一般でいう「自分勝手」とは違います。漱石はこの苦しい留学体験を通じて、他人の評価や西洋への迎合ではなく、自分の内側に立脚することの大切さに気づいたと語ります。つまり、ロンドンが憂鬱だったのは、環境が悪かっただけでなく、「外の世界に合わせようとしても自分が保てない」という痛みを、漱石がそこで強く経験したからです
イギリス人がどう評価していようと、自分がつまらないと感じるならつまらない。その感覚を出発点にする。この転換によって、漱石は「ようやく自分の鶴嘴(つるはし)を鉱脈に当てた」ような気がしたと語っています。
“自己本位”とは、他人のものさしで生きないこと
漱石のいう「自己本位」は、現代語でいう「俺が俺が」ではありません。
他人の評価を借りて、自分の人生を判断しないこと。外国の思想や世間の流行を、そのまま自分の答えにしないこと。自分の頭で考え、自分の内側に判断の軸を持つこと。
それが、漱石のいう「自己本位」だったのだと思います。
これは仕事にも直結する話です。フリーランスとして20年以上仕事をしていると、他人のものさしに振り回され始めたらきりがない、と感じることがあります。他人の単価、他人の実績、SNSの数字、業界の空気。比べる材料は無限にあります。でも、最後に自分を支えるのは「自分は何を大切にして仕事をするか」という軸です。それがないと、いくら仕事があっても、いくら稼いでも、不安は消えません。
漱石がロンドンの孤独の中で掴んだのは、まさにこの「自分の軸」だったのです。
個人主義は、わがままではない
ここからが、漱石の個人主義の一番大事なところです。
漱石の個人主義が面白いのは、自由だけを語っていないところです。
自分の個性を大事にしたいなら、他人の個性も大事にしなければならない。自分が自分の道を行きたいなら、他人が別の道を行くことも認めなければならない。
つまり漱石の個人主義は、わがままを正当化する思想ではなく、自分と他人の両方を尊重するための作法だったのです。
「自分らしく生きたい」と言う人は増えました。でも、自分の自由だけを求めて、他人の自由を認めないなら、それは個人主義ではなく、ただの身勝手です。漱石は100年以上前に、この違いをはっきり語っていました。
権力と金力を持つ人ほど、品性が問われる
『私の個人主義』には、もうひとつ重要な話があります。権力とお金の話です。
漱石は、個人の自由だけでなく、権力や金力の使い方にも触れています。
力を持つ人は、その力で他人を押さえつけることができてしまう。お金を持つ人は、そのお金で他人を従わせることができてしまう。だからこそ、力を持つ人間には品性が必要になる。漱石はそう語りました。
これは現代のビジネスにそのまま通じる話です。
発注側と受注側の関係を考えてみてください。「お金を払っているのだから、何を言ってもいい」という態度は、金力で相手の個性を踏みにじる行為です。逆に「仕事を受けているのだから、何でも従わなければならない」と自分を殺すのも、健全ではありません。
上司と部下、経営者と社員、インフルエンサーとフォロワー。力の差があるあらゆる関係で、漱石の問いは生きています。力を持ったとき、その力をどう使うか。そこにその人の品性が出ます。
自由には責任が伴い、力には品性が伴う。漱石の個人主義は、そこまで含めた思想でした。
明治の日本で、なぜ個人主義が必要だったのか
ここで少し、時代背景を見ておきます。
明治の日本は、国全体が「早く西洋に追いつかなければ」と走っていた時代でした。富国強兵、殖産興業。個人よりも国家が前に出る時代です。
その中で漱石は、西洋を学びながらも、西洋のものさしをそのまま自分のものさしにすることに苦しみました。国家のために学べと言われ、西洋を模範にしろと言われ、でもそのどちらにも完全には乗れなかった。
だからこそ彼は、他人から借りた基準ではなく、自分の内側から出てくる基準を持つ必要を語ったのだと思います。
国家の時代に「個人」を語る。西洋化の時代に「借り物ではない自分」を語る。『私の個人主義』は、単なる人生論ではなく、明治日本が西洋化の波の中で「自分の軸」を探していた、その時代の格闘の記録でもあるのです。
現代人も、他人のものさしで生きている
現代は、明治時代よりも自由な時代に見えます。
でも、僕たちは本当に自分のものさしで生きているのでしょうか。
年収、肩書き、学歴、フォロワー数、いいねの数。誰かが作った数字や評価で、自分の価値を測ってしまうことがあります。明治の人々が「西洋」というものさしに縛られていたように、現代の僕たちは「数値化された評価」というものさしに縛られているのかもしれません。
その意味で、漱石の「自己本位」は、100年以上経った今も古びていません。むしろ、他人のものさしがスマホの中に無限に流れ込んでくる今こそ、切実な言葉になっているように思います。
最後に ― 自分の軸で立つということ
「私の個人主義」は、わがままに生きるすすめではありません。
他人のものさしを借りて生きるのではなく、自分の内側に軸を持つこと。そして、自分がそうするなら、他人が別の軸で生きることも認めること。力を持ったなら、その力に品性を伴わせること。
漱石のいう個人主義は、自由であると同時に、かなり厳しい思想です。
でも、だからこそ今も刺さるのだと思います。
「負け惜しみの強い頑固者」という意味の名前を自ら名乗り、ロンドンで壊れかけながら「自己本位」を掴み、国家の時代に個人を語った漱石。
その言葉は、SNSや世間の評価に振り回されやすい現代の僕たちに、「あなたは何を大切にして生きるのか」という問いを、100年以上前から投げかけ続けているのかもしれません。
おしまい。







