仕事の品格は、見えないところに宿る

こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。

僕が若い頃から好きな政治家の一人に「李登輝(りとうき)」という方がいます。

台湾の民主化を成し遂げた偉大な人物です。

22歳まで日本人だった彼は、日本について語るとき、しばしば「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉を使いました。

それは、日本統治時代に台湾人が学んだ美徳の総称で、主に勇気、誠実、勤勉、奉公、自己犠牲、責任感、清潔を指します。

戦後、自信を失った日本人に再びこの精神を呼び起こし、アイデンティティを保つ重要性を繰り返し訴えた人物でもあります。

李登輝の哲学は、渋沢栄一が語った「道理に立つ富」、新渡戸稲造が描いた「自分の行動を恥じない倫理」とも、どこかで通じるものがあります。今日は、そんな彼のお話をしてみたいと思います。

コケ丸
コケ丸
台湾の人なのに、日本精神を語ったのか
よしたか
よしたか
そうなんだよ。そこが李登輝という人の面白いところでね、少し長くなるけど、詳しく語りたいと思うんだ

李登輝について

李登輝は1923年、台湾に生まれました。当時の台湾は大日本帝国の統治下におかれていたため、日本名として岩里政男と名乗っていました。京都帝国大学で農業経済学を学び、戦後は台湾大学教授を経て政治家へと転身します。1988年から2000年まで台湾の総統を務め、台湾生まれとしては初めての中華民国総統となりました。

台湾では「ミスター・デモクラシー」と呼ばれています。国民党の一党支配という体制の内側にいながら、長い時間をかけて段階的に民主化を進めた人物です。2000年には台湾初の政権交代を実現し、「台湾の民主主義の父」とも評されます。

コケ丸
コケ丸
国民党の中にいながら、民主化を進めたのか。矛盾してない?
よしたか
よしたか
ここが李登輝のすごいところなんだよ。外から壊すのではなく、内側から変えていったんだ。渋沢栄一が幕府に仕えながら近代化の道を探ったのと、どこか似ている気がする

2020年、97歳で亡くなる直前まで台湾の行く末を語り続けた人物でもありました。

日本統治前の台湾 ― 複雑な島だった

李登輝が生まれた台湾という島を理解するには、その歴史を少し遡る必要があります。

1895年以前の台湾は、ひとつの均質な社会ではありませんでした。清国の統治下にありながら、島全体に近代国家の行政が十分に行き届いていたとは言い難く、混乱と貧困が深刻な状況でした。

平地には漢人移民を中心とした社会があり、山地には原住民の社会がありました。清朝統治下の平地社会では、貧困家庭が多く、食事は粥や芋でしのぐ生活が一般的で、衛生環境や治安は十分に整っていませんでした。

山地に住む原住民の一部は成人儀礼や宗教的意味を持つ出草と呼ばれる首狩りを行い、狩猟・戦闘中心の部族社会を維持していましたが、これらは前近代的慣習で、土地共有制や集落自治が特徴の自然依存的生活でした。

台湾が近代化するには、治安、衛生、交通、教育、灌漑といった面で、多くの課題を抱えていたんですね。平均寿命は20~30歳前後だったと言われています。

1871年に宮古島の村民が乗った船が遭難し、台湾に漂着した際、船員の54名が台湾原住民に殺害されるという事件が起こります。日本政府は当時の清国に抗議しましたが、「台湾原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)だ」と返事されたため、日本政府は台湾に出兵。台湾原住民は日本軍に攻撃されて降伏したという話があります。

日本統治と近代化 ― 功績と支配の両面

1895年、日清戦争に勝利した日本は下関条約によって台湾を清国より正式に割譲され、台湾の領有を開始しました。先住民による抗日運動(ゲリラ)もありましたが、日本政府がこれを鎮圧。皇族の要請で原住民は「高砂族(たかさごぞく)」と改称され、同化政策が進み、日本語が共通語として機能していくことになりました。

この時代、日本一高い山は富士山(3,776m)ではなく、新高山(3,950m)でした。元は玉山と呼ばれる山でしたが、富士山を抜く新しい日本一の高山という意味でこう名付けられました。余談ですが、1941年の日本軍による真珠湾攻撃の決行を機動部隊に伝えた有名な暗号電報「ニイタカヤマノボレ」の新高山はこの山を指しているんですね。

太平洋戦争中、勇敢な高砂族の若者は「高砂義勇隊」として南太平洋の密林戦に参加し、大きな貢献を果たしたと言われています。

日本統治の約50年間(1895〜1945年)で、台湾には鉄道、道路、衛生制度、学校、灌漑、農業改良など、近代的な制度やインフラが整えられていきました。衛生教育が普及し、コレラやマラリアなどの感染症が抑制され、人口はおよそ260万人から約600~650万人へと大きく増加しました。平均寿命も約50~60歳前後に伸びたと見られています。

しかしそれは、台湾人のためだけに行われた善意の事業ではありません。日本帝国の統治を安定させ、植民地として機能させるための政策でもありました。台湾人に対する差別、抵抗運動への弾圧、皇民化政策による言語や文化の抑圧も、この時代の現実です。

近代化と植民地支配は、切り離せない形で同時に存在していました。

李登輝はこの両面を知りながら、それでも日本統治期の教育の中で身につけた倫理を「日本精神」と呼んで高く評価したのでした。

李登輝が語った「日本精神」とは何か

李登輝が挙げた日本精神(リップンチェンシン)の具体例は、前述したとおり、勇気、誠実、勤勉、奉公、自己犠牲、責任感、清潔の七つです。

これらは日本統治時代の台湾教育の中で学んだ美徳でした。李登輝はこれを、どの国の人間であっても、社会の中で責任を果たすために必要な倫理として語っています。

現代の仕事に引き寄せて読むと、こうなります。

  • 勇気」とは、面倒な問題から逃げないことです。
    言いにくいことを言う力、不利な現実を直視する力。
  • 誠実」とは、相手を欺かないことです。
    短期的に得でも、ごまかさない。説明と実態を一致させること。
  • 勤勉」とは、地味な積み重ねを軽んじないことです。
    目立たない改善、小さな準備、毎日の習慣。
  • 奉公」とは、自分だけでなく全体に資する仕事をすることです。
    チーム、顧客、社会を視野に入れること。
  • 自己犠牲」とは、自分を潰すことではなく、責任を引き受ける覚悟のことです。
    楽な選択より、正しい選択を取る力。
  • 責任感」とは、納品後・実行後まで見ることです。
    「渡したら終わり」ではなく、その先まで想像する力。

そして「清潔」。これが七つの中で最も面白いと思います。

「清潔」とは、見えない部分への責任感だった

李登輝が語った「清潔」の具体例として、船や下着まで徹底的に消毒するという話があります。目に見えない病気、目に見えない汚れ、目に見えないリスクまで想像して、先回りして整える。

これは単なる潔癖の話ではありません。
清潔とは、ただ汚れていないことではなく、見えない部分にも手を抜かないという態度だったのかもしれません。

現代の仕事で言えば、データのバックアップ、契約書の整備、納品前の最終チェック、ファイル名の付け方、メールの整え方、作業環境の整頓、リスク管理。誰も見ていないところまで丁寧にやるかどうか。そこに、その人の仕事の品質が出ます。

コケ丸
コケ丸
清潔って、衛生の話だと思ってたけど、そういう意味があったのか
よしたか
よしたか
見えないところまで整える力、って言い換えると、かなり現代の仕事に刺さると思うんだよね

八田與一と烏山頭ダム ― 公に尽くす仕事の実例

李登輝が語った「日本精神」を、ひとりの技術者の仕事の中に見るとすれば、八田與一(はったよいち)がわかりやすいかもしれません。

八田與一は金沢出身の土木技術者で、1910年に台湾総督府の技師として台湾に赴任しました。彼が生涯をかけて取り組んだのが、台湾南部の嘉南平野を潤す水利事業です。

当時の嘉南平野は水不足と塩害に苦しむ不毛の大地でした。八田はこの地を農地として蘇らせるために、烏山頭ダムと嘉南大圳(かなんたいしゅう)という巨大な灌漑システムの建設を計画します。

工事は1920年に始まり、1930年に完成。延べ数百万人の労働者が関わった大事業でした。完成した灌漑システムは嘉南平野の農業生産を飛躍的に向上させ、現在も稼働し続けています。

注目すべきは、八田がこの工事に関わった人々への姿勢です。工事中に亡くなった労働者たちの慰霊碑を建て、台湾人労働者と日本人労働者の処遇にも配慮し、現地の人々とともに仕事を進めたとされています。技術者としての仕事だけでなく、人としての向き合い方にも誠実だったとされています。

1942年、八田はフィリピンへ向かう輸送船がアメリカ潜水艦に撃沈され、59歳で亡くなります。終戦後の1945年、妻の外代樹(とよ)は、夫が造った烏山頭ダムの放水口に身を投じました。ふたりは今も、ダムのほとりに並んで眠っています。

コケ丸
コケ丸
奥さんがダムに身を投げたのか……
よしたか
よしたか
夫が生涯をかけた場所を、自分の最後の場所に選んだんだよね。それほど八田の仕事は、彼の人生そのものだったんだと思う

李登輝が八田與一を称えたのは、日本人だからではないと思います。自分の仕事が何十年も後の人々の暮らしを支え続ける。有名になるためではなく、水が田畑へ届くために働いた。そこに李登輝が見た「公に尽くす仕事」の具体的な姿があったのだと思います。

烏山頭ダムのほとりには今も八田の銅像が立ち、毎年命日には台湾の人々が花を手向けます。本当に良い仕事は、完成した瞬間よりも、何十年も使われ続けることで価値が証明される。八田與一の仕事は、今もそれを示し続けています。

ただし、日本精神を美化しすぎない

ここは必ず触れておきたいと思います。

李登輝にとって日本は、単なる懐かしい少年時代の記憶ではありませんでした。弟を戦争で失い、自分自身も日本名を持ち、日本語で教育を受け、戦後は台湾人として別の時代を生き直した。その複雑な経験の中から、それでもなお残ったものを、彼は「日本精神」と呼んだのだと思います。

「日本精神」という言葉は、扱い方を間違えると、すぐに日本礼賛の話になってしまいます。でも李登輝が見ていたのは、国籍としての日本人の優秀さではなく、統治期の教育や生活の中で育てられた倫理への評価だったのだと思います。

日本統治時代に「日本精神」として教えられた価値観の中には、戦時中に「お国のために命を落とせ」という方向へ利用されたものもあります。新渡戸稲造の武士道がそうであったように、どんな倫理も使い方を間違えれば凶器になりえます。

大事なのは、「日本人はすごい」と胸を張ることではなく、その精神を今の自分の仕事で実践できているかを問うことだと思います。

日本精神を、現代の仕事に引き寄せると

李登輝が語った七つの美徳を、もう一度仕事の言葉に置き換えてみます。

・勇気:言いにくいことを言う力。
・誠実:相手に不利な情報も隠さない誠意。
・勤勉:地味な積み重ねを軽んじない態度。
・奉公:チームや顧客や社会を視野に入れた仕事の視点。
・自己犠牲:責任を引き受ける覚悟。楽な選択より正しい選択。
・責任感:納品後、実行後まで見届ける姿勢。
・清潔:見えない部分まで手を抜かず整える力。

フリーランスとして20年仕事をしてきた実感として、これらは技術と同じくらい、あるいはそれ以上に仕事の継続に関わるものだと思います。一度の仕事で終わらず、長く続く関係を作るのは、たいてい技術ではなくこういうことの積み重ねです。

日本統治後の台湾と、民主化への道

日本統治(1895-1945年)の後、戦後(1945年以降)に蒋介石率いる中国国民党が台湾を統治し、台湾人を厳しく抑圧しました。

李登輝はこの国民党統治下の抑圧(白色テロ、二二八事件など)を苦しみ、日本統治時代が相対的に秩序・教育・インフラをもたらし台湾人を「救った」と肯定的に評価したのでした。

中国国民党と戦っていた毛沢東率いる中国共産党はその後、中華人民共和国を樹立。台湾は中華民国としての道を別に歩みます。蒋介石は冷徹で猜疑心の強い独裁者で、反体制の台湾人を弾圧し、数万人単位で命を奪いましたが、彼の死後、跡を継いだ息子の蒋経国は父より現実的かつ柔軟な人柄で、台湾経済成長を主導しました。

その蒋経国が副総統に任命したのが李登輝でした。

李登輝は蒋経国死去後の1988年に総統就任直後から民主化に着手し、1996年の総統直接選挙実現へ導きました。

民主化を主導した後も、日本を精神的な「運命共同体」と呼び、戦後の日本人の「日本精神」喪失を憂い、2020年に亡くなるまで励まし続けたと言われています。

コケ丸
コケ丸
最後の最後まで親日家でいてくれたんだな
よしたか
よしたか
李登輝にお世話になった日本の政治家も少なくないんだよ。亡くなったときは本当に悲しかった……

最後に:信頼は、細部に宿る

李登輝が語った日本精神は、過去の日本を懐かしむための言葉ではなく、現代の僕たちの仕事、生き方にもそのまま問われるものだと思います。

見えないところを整える。約束を守る。公のために責任を引き受ける。自分の仕事が誰かの暮らしを支えていると考える。

渋沢栄一は「正しい道理の富でなければ続かない」と言いました。新渡戸稲造は「誰も見ていなくても、自分が見ている」という感覚を名誉と呼びました。そして李登輝は、その精神を「日本精神」と名付け、自分の政治と人生の軸にしました。

三人が語ったのは、結局同じことだったのかもしれません。

信頼は、細部に宿る。

よしたか
よしたか
以上、李登輝の日本精神にまつわるお話でした

おしまい。

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榎本 よしたか
フリーランス歴20年の歴史好きイラストレーター。 歴史や哲学、幸福論をテーマに、現代の仕事や組織に通じるヒントを考えるブログです。 戦国時代、幕末、近代、そして古代思想まで。時代や国を越えて、人間の選択と意思決定の構造を見つめ直します。