なぜ人は「見たいもの」しか見ないのか ― フランシス・ベーコンの四つのイドラ
400年前に、既に「思い込み」を分類していた男
こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。
仕事をしていて、こんな経験はないでしょうか。
自分では冷静に判断したつもりだったのに、あとから振り返ると、都合のいい情報ばかり集めていた。会議で全員が納得した企画が、外部の人に見せた途端に「え、それ意味あります?」と言われた。ずっと正しいと信じていた業界の常識が、若い人から見ると理解不能だった。
どうやら人間は、世界をそのまま見ているわけではないようです。
現代なら「認知バイアス」という言葉で語られるような、人間の認識の偏り。ところが今から400年前、まだ心理学という学問すら存在しなかった時代に、この人間の思い込みを四種類に分類してみせた人物がいました。
イギリスの哲学者、フランシス・ベーコンです。
彼はそれを「イドラ(idola)」と呼びました。ラテン語で「幻影」「偶像」を意味する言葉です。今日は、この400年前の思い込みカタログが、いかに現代の仕事に効くかという話をします。
フランシス・ベーコンについて
フランシス・ベーコンは1561年、イギリスの高官の家に生まれました。ケンブリッジ大学で学び、政界へ進み、エリザベス1世、続くジェームズ1世に仕えて、ついには大法官という司法の最高位にまで上りつめます。
つまり彼は、書斎にこもった学者ではありません。宮廷政治の魑魅魍魎のただ中を生き抜いた、現役のトップエリート官僚でした。人間がいかに欲望と思い込みで動くかを、生々しく観察できる立場にいたわけです。
その彼の名を歴史に刻んだのが、「知は力なり」という言葉と、新しい学問の方法論でした。
当時のヨーロッパの学問は、アリストテレスら古代の権威を絶対視し、そこから理屈をこねる方法が主流でした。ベーコンはこれに真っ向から異を唱えます。まず自然を観察せよ、実験せよ。そして事実を集め、比較し、誤った可能性を排除しながら法則へ近づいていく。彼が構想したこの方法論が、近代科学の礎のひとつになりました。
そしてベーコンは考えました。正しく観察するためには、その前にやるべきことがある。観察する側の目の曇りを、まず自覚しなければならない、と。
こうして生まれたのが、四つのイドラです。
イドラ①「種族のイドラ」― 人間である以上、逃れられない歪み
一つ目は、人類という種そのものが持つ思い込みです。
人間の感覚も知性も、それ自体が歪んだ鏡のようなものだとベーコンは言います。たとえば人は、自分の願望に合う情報を集めたがる。偶然の一致に意味を見出したがる。物事を実際より整った秩序として見たがる。先日の東京での地震を将門の祟りと称した事例なんかまさにそうですね。
これは現代でいう確証バイアスや、偶然に規則性を見出してしまう傾向を思わせます。
仕事の場面で言えば、「この企画はいける」と思った瞬間から、いける理由ばかりが目に入り、まずい兆候が見えなくなる。あの現象です。厄介なのは、これが人類共通の仕様なので、自分は冷静だと思っている人ほど深くハマることです。
イドラ②「洞窟のイドラ」― 自分だけの狭い洞窟から世界を見る
二つ目は、個人の経歴や性格から来る偏りです。
人はそれぞれ、生まれ育ちや教育、読んだ本、就いた職業によって作られた「自分だけの洞窟」に住んでいて、その入り口から見える範囲だけを世界だと思っている。ベーコンはそう表現しました。
これは仕事に直結します。技術畑の人は技術の問題として、営業畑の人は売り方の問題として、経理の人はコストの問題として、同じトラブルをまったく違う姿で見る。誰も嘘はついていないのに、話が噛み合わないということがしばしば起こります。
僕自身、イラストレーターという洞窟の住人です。だから何かを見るとき、たとえばアニメなら無意識に構図の良し悪しやデッサンの狂いがないかどうか、色や見た目の印象から入ってしまう。それは強みでもありますが、同時に、僕には最初から見えていない側面があるということでもあります。例えば声優の演技の良し悪しには疎いとか。
イドラ③「市場のイドラ」― 言葉が思考を狂わせる
三つ目は、人と人とのコミュニケーションから生まれる「市場のイドラ」です。
僕は四つの中で、これがいちばん現代的で面白いと思います。人間は、言葉を使って世界を整理します。「成功」「才能」「普通」「若者」「効率」「自由」。
名前をつけることで、複雑な世界について話せるようになる。言葉がなければ、僕たちは考えることも、他人と情報を共有することもできません。
ところがベーコンは、ここに大きな罠があると考えました。
人間が言葉を支配しているつもりでも、いつの間にか言葉のほうが人間の思考を支配してしまう。
たとえば会議で、「もっと若者向けにしよう」「シンプルなデザインにしよう」「もっと高級感を出そう」という話になったとします。全員が頷きますよね。
ところが「若者とは何歳のことですか」「シンプルとは何を減らすことですか」「高級感とは具体的に何を指しますか」と聞いてみると、それぞれが頭の中に描いていたものがまったく違っていたりします。
同じ言葉を使っているからといって、同じものを考えているとは限らないのです。
さらに厄介なのは、名前をつけただけで「それが本当に存在する」と思ってしまうことです。「最近の若者は○○だ」「成功者には共通点がある」「日本人は○○な民族だ」等々…。
こうした言葉で集団をひとまとめにすると、本来はバラバラだった人や現象が、まるで一つの性質を持った実体であるかのように見えてきます。そして、その言葉が人から人へと渡っていくうちに、
「みんながそう言っている」
「そういうものらしい」
という形で、思い込みがさらに強化されることもあります。
ベーコンがこれを「市場」と呼んだのは、人々が集まり、言葉を交換する場所から生まれる誤りだからです。
400年前には市場や広場だったものが、今なら会議室であり、テレビであり、SNSなのかもしれません。
イドラ④「劇場のイドラ」― 出来上がった体系という舞台劇
四つ目は、すでに出来上がった思想体系や学説を、ひとまとまりの「世界」として信じ込んでしまう思い込みです。
ベーコンは、既存の哲学体系を「舞台の上で演じられる作り話」にたとえました。壮大で、筋が通っていて、拍手したくなる。でもそれは、あくまで舞台の上で完結した世界であって、現実そのものではない。
ここには、アリストテレス的哲学を中核とするスコラ学や、伝統的な哲学体系をドグマ(信念・原則)として扱う当時の学問慣行への批判が込められています。そして現代の僕たちも、この舞台から自由ではありません。「有名なコンサルの理論だから」「あの成功企業のフレームワークだから」「業界では昔からこうだ」。ひとつの体系が完成されて見えるほど、人はその外側を考えなくなります。
以前このブログで天動説の歴史を書きました。天動説そのものは当時の観測によく合った精密な理論でしたが、そこへ古代以来の権威や哲学体系が重なることで、別の可能性を考えにくくなる面もありました。こうした「完成された体系の強さ」は、劇場のイドラを考えるうえでわかりやすい例かもしれません。
四つのイドラは、仕事の「点検リスト」になる
ここまで読んで、お気づきかもしれません。この四つ、そのまま仕事の点検リストとして使えます。
企画や判断に迷ったとき、順に自分へ問いかけてみてください。
種族のイドラ。自分は結論ありきで、都合のいい情報だけを集めていないか。反対材料をきちんと探したか。
洞窟のイドラ。これは自分の職種や経験から見た景色にすぎないのではないか。まったく違う立場の人なら、どう見えるか。
市場のイドラ。いま使っているこの言葉、全員が同じ意味で受け取っているか。曖昧な「いい感じに」で合意していないか。
劇場のイドラ。この判断の根拠は、実際のデータか、それとも「そういう理論だから」か。
とくに実務で即効性があるのは、三つ目の市場のイドラだと思います。会議の終わりに「では、いま決まった『シンプルに』というのは、具体的に何を削ることですか」と一言確認する。それだけで、後の手戻りがずいぶん減ります。
ベーコンの面白いところは、ただ「思い込みに気をつけろ」と精神論で終わらせず、それを四つに分類したことです。名前がつくと、人はそれを見つけられるようになります。漠然と身構えるより、「これは洞窟だな」「これは劇場だな」とラベルを貼れるほうが、はるかに実用的なのです。
雪の中で、鶏に雪を詰めた男
最後に、ベーコンという人物の逸話を紹介させてください。
1626年のある寒い日、馬車で移動していたベーコンは、道端に積もった雪を見て、ふとある考えを思いつきます。低温は肉の腐敗を防ぐのではないか、と。
普通の学者なら、書斎に戻ってから考えるところです。しかしベーコンは違いました。彼はその場で馬車を止めさせ、近くの民家で鶏を一羽買い求め、自ら腹に雪を詰め込むという実験を、雪の中で始めたのです。
いかにも、観察と実験を重んじたベーコンらしい逸話です。
ところがこの実験の最中に寒さで体調を崩したベーコンは、そのまま回復せず、数日後に亡くなりました。享年65。理論より実験を、権威より観察を訴え続けた哲学者の、あまりに彼らしい生涯の閉じ方でした。
やや間の抜けた最期に見えるかもしれません。でも僕は、この逸話にベーコンという人の本質が出ていると思います。頭の中で考えるだけではなく、実際に確かめてみる。少なくともこの逸話には、ベーコンが理想とした知の姿勢がよく表れているように思います。
最後に ― 曇った眼鏡を、自覚して掛ける
四つのイドラが教えてくれるのは、少し厳しい事実です。
人間は、思い込みから完全に自由になることはできません。種族としての歪みも、自分の洞窟も、言葉の不正確さも、出来上がった体系への弱さも、そう簡単には消し去れません。
でも、自分が曇った眼鏡を掛けていると知っている人と、自分の視界がクリアだと信じている人とでは、判断の質がまるで違ってきます。
「なぜ人は見たいものしか見ないのか」。その答えは、人間だからです。ならばせめて、自分がいま何を見落としているかを問える人でありたい。400年前の哲学者が四つの名前をつけたことで、僕たちは今でも、自分の認識の癖を点検する手がかりを得ることができます。
次の会議で、もし全員の意見がスムーズに一致したら、一度立ち止まってみてください。それは正しさの証明かもしれませんし、四人のイドラが仲良く握手しているだけかもしれないのですから。
おしまい。










