愛は感情ではなく技術なのか ― フロム『愛するということ』を現代に読む
愛は「落ちるもの」だと思っていないか
こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。
僕たちは、愛を「落ちるもの」だと考えがちです。
恋に落ちる。運命の相手に出会う。自分を愛してくれる誰かを探す。マッチングアプリを開けば、条件の合う相手が次々と表示され、恋愛ドラマは「出会いの奇跡」を描き続けています。
でも、ドイツ生まれの社会心理学者エーリッヒ・フロムは、少し違う見方をしました。
愛とは、ただ湧き上がる感情ではない。学び、鍛え、実践していく「技術」なのだ、と。
この考え方を示した『愛するということ』は、1956年の出版以来、世界中で読み継がれてきたロングセラーです。恋愛指南書でもないのに、なぜこの本は70年近くも読まれ続けているのでしょうか。
エーリッヒ・フロムについて
エーリッヒ・フロムは1900年、ドイツのフランクフルトに生まれました。正統派ユダヤ教の家庭で、祖先には代々ラビ(ユダヤ教の宗教指導者)を務めた人物が多くいたといいます。少年時代のフロム自身も、一時はラビになることを考えていたそうです。
大学では社会学と心理学を学び、精神分析の道へ進みます。しかし1933年、ナチスが政権を握ると、ユダヤ系のフロムはドイツにいられなくなり、アメリカへ亡命しました。
この経験が、フロムの思想の核心を作ります。
なぜドイツの人々は、自ら自由を手放し、ヒトラーという権威に従ったのか。近代人は自由を手に入れたはずなのに、なぜその自由に耐えられず、孤独と不安に苦しむのか。この問いを追究した『自由からの逃走』(1941年)は、フロムの名を世界に知らしめました。
つまりフロムは、恋愛カウンセラーではありません。彼が見ていたのは、自由になったはずなのに孤独になり、商品や成功や承認に囲まれながらも、深い関係を失っていく近代人の姿でした。『愛するということ』は、その近代人への処方箋として書かれた本なのです。
フロムはなぜ「愛は技術である」と言ったのか
『愛するということ』の冒頭で、フロムはこう問いかけます。愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要になる、と。
絵を描くにも、文章を書くにも、技術が必要です。最初は勢いで描けても、続けるためには観察力、手の訓練、構成力、忍耐が必要になります。医学を学ぶ人が解剖学から始めるように、音楽家が毎日楽器に触れるように、どんな技術にも知識と実践の積み重ねがあります。
フロムは、愛もそれと同じだと考えました。気分だけで成立するものではなく、知識、訓練、集中、忍耐、そして人格の成熟を必要とする技術なのだ、と。
考えてみれば不思議です。僕たちは仕事のスキルには何年も投資するのに、「愛する力」を鍛えようと考えることはほとんどありません。愛は自然に湧いてくるもの、相性が良ければうまくいくもの、と思っている。
フロムに言わせれば、そこにこそ、多くの人が愛に失敗する理由があるのです。
人は「愛すること」より「愛されること」に夢中になる
フロムの指摘で最も鋭いのが、ここです。
人々は「どう愛するか」より、「どう愛されるか」に関心を向けがちだ、というのです。
現代でも、多くの人は「どう愛されるか」に悩んでいます。もっと魅力的に見られたい。選ばれたい。必要とされたい。自分を高く評価してくれる相手に出会いたい。
でもフロムに言わせれば、そこには大きな落とし穴があります。
愛の問題を、「自分が愛する能力を持っているか」ではなく、「自分が愛される商品価値を持っているか」の問題にすり替えてしまうからです。
外見を磨き、スペックを上げ、プロフィールを整える。それ自体は悪いことではありません。でもそれは「愛される努力」であって、「愛する力を育てる努力」ではない。フロムはこの違いを、70年前にすでに見抜いていました。
恋愛が「市場」になる時代
フロムは、資本主義社会では人間関係まで市場のようになると見ていました。
人は自分を魅力的な商品として磨き、相手も条件で選ぶ。お互いが「市場で手に入る範囲で最良の商品」を交換するような関係。フロムはこれを、愛ではなく取引だと考えました。
現代のマッチングアプリを見ると、この指摘の先見性に驚きます。年収、学歴、身長、趣味、写真。人がプロフィールという「商品情報」になり、スワイプで選別される現実…。
もちろん、相手を選ぶこと自体が悪いわけではありません。ただ、恋愛があまりにも市場のようになっていくと、人は相手を「ひとりの人間」として見るより、「条件の組み合わせ」として見てしまうことがあります。
条件で探すことは便利です。しかし、条件だけでは人を愛することはできません。フロムが70年前に書いたこの警告は、マッチングアプリの時代にこそ響くものだと思います。
愛には、配慮・責任・尊重・知が必要である
では、フロムの言う「愛する技術」とは何なのか。
フロムは、愛にはいくつかの要素があると考えました。配慮(care)、責任(responsibility)、尊重(respect)、知(knowledge)の4つです。
相手を気にかけること。
相手に対して責任を持つこと。
相手を自分とは別の人間として尊重すること。
そして、相手を知ろうとすること。
この中で特に大事なのは、「尊重」かもしれません。
愛していると言いながら、相手を自分の理想に押し込めようとすることがあります。でもそれは、相手を見ているようで、実は自分の欲望を見ているだけなのかもしれません。
フロムにとって、愛とは相手を所有することではありません。相手を自分の不安を埋める道具にすることでも、相手を自分の思い通りに動かすことでもない。本当に愛するとは、相手が相手自身として成長していくことを願う、能動的な関心なのです。
自分を愛せない人は、他人も愛せない
フロムのもうひとつの重要な指摘が、自己愛についてです。
フロムは、自分を愛することも大切だと考えました。ただしそれは、自己中心的に振る舞うことではありません。
自分を一人の人間として大切にし、自分の人生に責任を持つこと。自分を軽く扱わないこと。
自分を粗末に扱う人は、他人との関係でも、依存したり、相手にしがみついたり、逆に相手を支配しようとしたりしてしまうことがあります。自分の中に安定した足場がないと、他人を「自分を支えるための道具」にしてしまうからです。
これは、以前書いた漱石の「自己本位」とも通じる話です。自分勝手に生きるという意味ではなく、自分の内側に軸を持つこと。その足場があって初めて、他人とも健全に向き合える。国も時代も違う二人が、似た結論に辿り着いているのは面白いところです。
愛は、恋愛だけの話ではない
『愛するということ』は、恋愛だけの本ではありません。
フロムはこの本で、恋愛だけでなく、兄弟愛、母性愛、自己愛、神への愛など、さまざまな愛の形を論じています。フロムにとって愛は、人間が世界とどう関わるかという態度そのものでした。
家族をどう見るか。友人をどう見るか。仕事相手をどう見るか。社会の中の見知らぬ人をどう見るか。
愛する力とは、誰か特定の相手だけに向かう感情ではなく、世界に対する姿勢でもあるのです。
これは仕事の人間関係にも通じます。たとえば、クライアントを「案件」としてだけ見るのではなく、一人の人間として見ること。同僚や部下を「機能」としてではなく、成長していく人間として見ること。フロムの言う配慮・責任・尊重・知は、そのまま仕事の人間関係の質を決める要素でもあります。
現代人は、愛する力を失っていないか
現代は、人とつながりやすい時代です。
メッセージはすぐ届き、誰かの近況もすぐわかります。出会いの手段も増えました。
でも、人と深く関わることは、むしろ難しくなっているのかもしれません。
すぐに比べてしまう。すぐに飽きてしまう。すぐに傷つくことを恐れてしまう。合わないと感じたら、ブロックひとつで関係を消せる。
もちろん、距離を置くことで自分を守れる関係もあります。けれど、すべての関係を簡単に切り替えられる時代だからこそ、深く関わる力は意識して育てる必要があるのかもしれません。
フロムが言うように、愛が技術であるなら、僕たちはその技術をどれだけ練習しているのでしょうか。絵の練習はする、仕事の勉強はする、でも「人を深く知ろうとする練習」「相手を尊重する練習」は、いつしているでしょうか。
そう考えると、この70年前の本が今も売れ続けている理由が、少し見えてくる気がします。
最後に ― 愛する力は、育てるもの
愛は、もちろん感情を含みます。
好きだと思う気持ち、そばにいたいと思う気持ち、大切にしたいと思う気持ち。それらを否定する必要はありません。
でもフロムは、愛を感情だけで終わらせませんでした。
愛するとは、相手を知ろうとすること。尊重すること。責任を持つこと。相手の成長を願うこと。そして、そのための自分自身を育てること。
だから愛は、落ちるものではなく、育てるものなのかもしれません。
ナチスの時代に人間の憎しみと孤独を見つめ続けた思想家。そこから彼が見出した答えのひとつが、「愛する能力を育てよ」という、シンプルで厳しい考え方でした。
愛してくれる相手を探す前に、自分には愛する力があるのか。
フロム『愛するということ』は、70年近く経った今も、静かにその問いを投げかけているのだと思います。
おしまい。







