なぜお盆には、死者も生者も故郷へ帰るのか ― 供養と帰省が重なった日本の夏
死者と生者が、同じ方向へ動く数日間
こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。
毎年8月、日本では多くの人が故郷へ向かいます。新幹線は満席、高速道路は数十キロの渋滞。ニュースは「帰省ラッシュがピークを迎えています」と繰り返します。
ところが、この時期に帰ってくるのは、生きている人だけではありません。
家々では迎え火が焚かれ、仏壇が整えられ、キュウリの馬が用意される。死者たちが帰ってくるのを、生きている家族が待っているのです。
考えてみれば、不思議な光景です。日本列島の各地で、死者と生者が同じ方向へ、つまり「家」へ向かって移動する数日間。
なぜお盆には、死者が帰ってくることになっているのか。そしてなぜ、生者まで帰るのか。調べていくと、仏教だけでは説明のつかない、日本の夏の正体が見えてきたんです。
僕も子どもの頃、お盆になると家にお坊さんが来て、仏壇の前でお経を唱えてくれました。だから、お盆とは最初から最後まで仏教の行事なのだと、疑いもしませんでした。
ところが調べてみると、もちろんお盆は仏教行事ではあるものの、僕がもっとも「お盆らしい」と思っていた「先祖が家へ帰ってくる」という部分は、元の仏教説話には出てきません。この意外な事実が、今回お盆の歴史を書くきっかけになりました。
仏教の原型には「先祖が家へ帰る話」がない
「お盆」という呼び名の背景には、仏教行事である「盂蘭盆会(うらぼんえ)」があります。その由来とされるのが、お釈迦様の弟子・目連(もくれん)の説話です。
神通力に優れた目連が、亡き母の姿を死後の世界に探すと、母は餓鬼道に堕ち、飢えと渇きに苦しんでいました。嘆く目連に、お釈迦様は教えます。夏の修行を終えた僧たちに食べ物を供養しなさい。その功徳によって、母を救うことができる、と。
目連がそのとおりに供養すると、母は餓鬼道の苦しみから救われました。これが、盂蘭盆会の由来とされる物語です。ただし、この説話を伝える『盂蘭盆経』がどこで成立したのかについては、中国で作られた経典だとする説を含め、さまざまな議論があります。
ここで気づいてほしいのです。この話のどこにも、先祖が家へ帰ってくるという要素がありません。迎え火も、キュウリの馬も、お墓参りすら出てこない。あるのは「あの世で苦しむ死者を、こちらの供養で救う」という発想だけです。
つまり、僕たちが知っている「ご先祖様をお迎えするお盆」は、仏教だけから生まれたものではないのです。では、あの「帰ってくる」という発想は、どこから来たのでしょうか。
複数の流れが、日本の夏で重なった
お盆には、少なくとも三つの流れが重なっています。
一つ目が、目連説話に代表される仏教の死者供養です。
二つ目が、中国の祖先祭祀です。仏教が中国に広まる過程で、この供養の行事は祖先を祀る習俗や、道教の中元節などと影響し合い、「7月半ばに死者や祖先を供養する行事」として定着していきました。先祖を大切に祀る儒教的な感覚も、そこに深く混ざり込んでいます。
そして三つ目が、日本で育まれてきた祖霊信仰です。
日本の盆行事には、人は死後に祖霊(それい)となり、決まった時期に子孫のもとを訪れるという死者観が重なっていると、民俗学では考えられてきました。お正月もお盆も、どちらも祖霊を迎える行事として行われているんですね。
死者は遠くへ消え去るのではなく、ときどき家へ帰ってくる身近な存在である。この死者観が大陸から伝わった供養の行事と結びつき、「先祖の霊を家に迎える」という日本のお盆が形づくられていったのです。
仏教の供養、中国の祖先祭祀、日本の祖霊信仰。いくつもの文化が溶け合って、どの国のものとも違う行事になった。日本文化お得意の「混ぜて自分たちの形に作り替える」編集技術の産物なのですね。
【注釈】
とはいうものの、同じ日本のお盆でも、その捉え方は一つではありません。とくに浄土真宗では、お盆を「亡くなった人の霊が一時的に家へ帰ってくる日」とは考えていないようです。亡き人は阿弥陀仏の働きによって浄土へ往生しており、お盆の数日間だけ戻ってくる存在ではない、という受け止め方をしているとのこと。
なので、浄土真宗では、お盆を「歓喜会(かんぎえ)」とも呼びます。故人をこちら側の供養によって救うのではなく、亡き人をご縁として仏法を聞き、阿弥陀仏の救いをよろこぶ機会です。そのため本願寺派では、先祖の霊を迎えるための盆棚や精霊棚を用いないようです。同じ「お盆」でも、民間の習俗と仏教各派の教えは、必ずしも同じではないのですね。
迎え火と精霊馬は「死者のための交通案内」
そう考えると、迎え火や盆提灯、精霊馬といった風習が、俄然味わい深く見えてきます。これらは、目に見えない死者のための「交通インフラ」なのです。
迎え火は、帰ってくる霊が家を間違えないための目印。盆提灯は、道に迷わないための街灯。そしてキュウリの馬とナスの牛、あの「精霊馬(しょうりょううま)」は、死者の乗り物です。一般には、キュウリの馬は「少しでも早く帰ってきてほしいから足の速い馬を」、ナスの牛は「帰りはお土産の供物を積んで、ゆっくり戻ってほしいから牛を」と説明されます。地域によって意味や作法には差がありますが、この説明が広く親しまれています。
行きは速く、帰りはゆっくり。この設定に込められているのは、要するに「少しでも長く一緒にいたい」という気持ちなんですね。
日本人は、目に見えない死者のために、明かりを灯し、道案内を立て、乗り物まで用意しました。信じる・信じないという次元の話ではなく、会えない相手をどう丁重にもてなすかという、想像力と愛情の様式なのだと思います。
盆踊りは、誰のために踊っているのか
お盆の風景に欠かせない盆踊りも、単なる夏の娯楽ではありません。
その成り立ちにはさまざまな系譜がありますが、その一つとされるのが、鎌倉時代に一遍上人らが広めた踊り念仏です。念仏を唱えながら踊る宗教的な行いが、死者供養と結びつき、各地の村の祭りと混ざり合って、多様な盆踊りが育っていきました。
つまり盆踊りは、帰ってきた死者たちと一緒に過ごす時間でもあったのです。死者を迎え、共に過ごし、踊り、そして送り火で帰す。お盆とは、この一連の「死者との数日間」であり、盆踊りはそのひとつのクライマックスだったのです。夏祭りのやぐらを囲む輪を、今年からは少し違う目で見てしまいそうですね。
7月盆と8月盆があるのはなぜか
ところで、「うちのお盆は7月」「うちは8月」という違いに戸惑ったことはありませんか。
もともとお盆は旧暦7月15日前後の行事でした。ところが明治の改暦で暦が新暦に切り替わると、対応が分かれます。新暦の7月15日にそのまま移した地域と、「それでは季節感がずれるし、農作業の繁忙期に重なる」と、ひと月遅れの8月15日前後に行うことにした地域に分かれたのです。
東京などでは7月盆が多く、全国的には8月盆(月遅れ盆)が主流になりました。カレンダーの都合で行事が動いても、「夏に先祖を迎える」という核だけは、どの地域も手放さなかったんですね。
生者の里帰りは、江戸時代からあった
さて、最初の疑問に戻ります。なぜお盆には、生きている人まで故郷へ帰るのでしょうか。
実は、お盆に生者が実家へ帰る習慣は、近代より前にもありました。
江戸時代、商家などに住み込んで働く奉公人には、現在のような定休日がほとんどありませんでした。そんな彼らが実家へ帰ることを許された貴重な休日が、正月と盆の「藪入り(やぶいり)」です。とくに旧暦7月16日の休みは「後の藪入り」と呼ばれ、盆の務めを終えた奉公人たちが親元へ帰りました。
つまり、死者が家へ帰ってくる時期には、遠くで働く生者も家へ帰っていたのです。
ただし、それが現在のような大規模な帰省ラッシュになったのは、ずっと後のことです。
近代化、とりわけ戦後の高度経済成長期になると、進学や就職で地方から大都市へ移り住む人が急増しました。鉄道や高速道路が整い、会社の夏季休暇も盆の時期に重なる。こうして、かつては奉公人たちの小さな里帰りだったものが、日本列島を動かす国民的な大移動へと変わっていったのです。
もちろん、現代の帰省がすべて先祖供養のためとは限りません。両親や友人に会うため、子どもを祖父母に会わせるため、単に休暇を過ごすために帰る人もいるでしょう。
それでも、死者を迎える時期に生者も故郷へ帰るという暦のリズムは、今も変わっていません。帰省ラッシュとは、古くからあった里帰りの習慣が、近代の交通網によって巨大になった姿とも言えるのです。
最後に ― 一年に一度、同じ家を目指す時間
お盆とは何なのか。歴史をたどって見えてきたのは、こういう姿です。
仏教の死者供養、中国の祖先祭祀、日本の祖霊信仰。それらが溶け合って、この国の夏に根を下ろした行事。仏教であって仏教だけではなく、外来であって土着でもある。そこでは古くから、死者が家へ帰る時期に、遠くで暮らす生者も親元へ帰っていました。近代の交通網は、その里帰りを日本列島規模の大移動へと変えました。
長い時間をかけてお盆は、死者と生者が一年に一度、同じ家を目指す時間になったのですね。
今年のお盆、帰省する方も、しない方も、夕方にふと思い出してみてください。8月15日前後には、日本各地の家々で小さな火が焚かれ、キュウリの馬が盆棚に用意されていること。そして渋滞のニュースの向こうで、目に見えない帰省ラッシュも、静かにピークを迎えているかもしれないことを。
おしまい。







