令和の日本で「祟られるぞ」の大合唱が起きた

こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。

先日、東京・大手町の平将門の首塚で、ある配信者が石碑によじ登り、奇声を上げるなどの行為をライブ配信し、管理団体が警察に相談するという出来事がありました。

このニュースへの反応が、なかなか興味深いものでした。SNSには「よりによってあそこか」「祟られるぞ」「あそこだけは触っちゃいけない」という声があふれたのです。中には「あの祠を壊したのか、なんてのはフィクションの中でしか聞けないと思っていた」という感想もありました。

考えてみると、これは不思議な現象です。スマートフォンで生中継をする時代の日本で、千年以上前に死んだ武将の祟りが、大真面目に語られている。

でも、ここで正直に伺いたいのです。皆さんは、将門の祟りとは具体的に何なのか、説明できるでしょうか。

なんとなく怖い場所」「触ってはいけない場所」ということは知っている。でも、なぜそうなったのかは、意外とご存じない方が多いかもしれません。

そこには長い時間をかけて積み重なり、時代ごとに姿を変えてきた、実に興味深い信仰の歴史がありました。

コケ丸
コケ丸
言われてみればオレも「ヤバい場所」ってことしか知らないぞ
よしたか
よしたか
実はそこが今日の一番面白いところなんだ。理由は忘れられても、「触るな」という感覚だけが残る。これって文化の伝わり方として、すごく興味深いんだよ

平将門とは何者だったのか

まず主人公の紹介から。ただし手短にいきます。この記事の主役は、生前の将門ではなく、死後の将門だからです。

平将門は、平安時代中期に東国で勢力を伸ばした武将です。もともとは一族間の争いから始まった戦いでしたが、やがて関東各地の国府を次々と攻略。ついには自らを「新皇」、つまり新しい天皇と称して、京都の朝廷とは別の政治秩序を築こうとしました。

もちろん朝廷側もこれを放置しません。940年、将門は平貞盛・藤原秀郷らとの戦いで矢を受けて討死します。「新皇」を称してから、わずか数か月後のことでした。

そして討ち取られた首は京都へ送られ、市中でさらされます。

ここから、将門の「第二の人生」が始まるのです。

首が、東国へ飛んで帰ってきた

京都でさらされた将門の首について、後世の物語は、とんでもないことを書いています。

14世紀の軍記物語『太平記』では、将門の首は三か月経っても色が変わらず、目も閉じず、歯を食いしばったまま、「斬られた私の体はどこにある。ここへ来い。首をつないでもう一戦しよう」と夜な夜な語ったとされています。

そしてさらに時代が下った江戸時代の『前太平記』では、将門の首は東国を懐かしんで空を飛び、武蔵国へ落ちたと語られました。

荒唐無稽な話です。しかし、この「飛ぶ首」の伝説は各地に痕跡を残しました。首が落ちたと伝えられる場所は関東各地にあり、そのひとつが、現在の東京都千代田区大手町にある将門塚です。

もちろん、本当に首が空を飛んだわけではないと思います。

それでも、朝廷に反旗を翻して非業の死を遂げた将門には、後世の人々がさまざまな思いを重ねました。将門は反逆者である一方、東国では英雄的な人物として語られることもあります。

都でさらされた首が、自ら故郷へ帰ってくる。

そんな物語が生まれたこと自体に、将門という人物が後世の人々に与えた強烈な印象が表れているのかもしれません。

なぜ「祟る将門」になったのか

さて、ここからが歴史の芯です。

神田明神の社伝によれば、14世紀初め、荒廃していた将門塚の周辺で天変地異などが相次ぎ、人々はこれを将門の御神威として恐れたといいます。

そこで人々が取った対策が、なかなか興味深いものでした。

祓う。封じる。追い出す。

――ではありません。

丁重に祀り、鎮めるという方法です。

1307年、時宗の遊行僧・真教上人が将門の御霊を供養し、「蓮阿弥陀仏」という法号を贈ったと伝えられています。そして1309年、その御霊は神田明神に合祀されました。

ここには、日本で発達した「御霊信仰」という考え方があります。

非業の死を遂げ、恨みを残した死者の霊は、災害や疫病を引き起こすほど強い力を持つ。ならば、その霊をないがしろにするのではなく、丁重に祀って鎮めよう。そして神として敬うことで、その力を今度は人々を守る方向へ向けてもらおう。

学問の神様として知られる菅原道真も、もとはこうした御霊信仰と深く関わっています。京都に寺社仏閣が多い理由のひとつでもあります。

コケ丸
コケ丸
怖いから封印するんじゃなくて、神様になってもらうのか!?
よしたか
よしたか
発想の転換だよね。恐ろしいほどの力を持つ霊だからこそ、丁重に祀って守っていただく。御霊信仰には、そういう考え方があるんだ

近代になって、祟りは「再燃」した

中世に鎮められたはずの将門ですが、その「祟り」が再び広く語られるようになるのは、意外にも近代に入ってからです。

1923年の関東大震災で大蔵省庁舎が焼失すると、翌年、仮庁舎の建設にあたって将門塚が取り壊されました

ところがその後、1926年には大蔵大臣の早速整爾が急死し、翌1927年には工事部長だった矢橋賢吉も亡くなります。こうした不幸が続いたことで、「塚を壊した将門公の祟りではないか」という噂が広まり、1927年には鎮魂碑が建てられたといいます。

興味深いことに、この逸話は現在の国税庁の資料でも紹介されています

さらに1940年には大手町官庁街で火災が起き、戦後には連合国軍が塚を整地しようとした際、ブルドーザーが横転して運転者が亡くなったという話まで、「将門の祟り」の物語に加わっていきました。

もちろん、これらが本当に祟りだったと証明することはできません。

震災後や戦後の混乱期には、事故も病死も数多く起きています。それらと将門塚との間に因果関係があることを示す証拠はありません。

でも、この記事で本当に面白いのはそこではありません。

事故や不幸が起きるたび、人々がそれを「将門の祟り」という、すでに存在していた物語へ結びつけていったことです。

中世の天変地異。大正時代の大蔵省関係者の死。昭和の火災。戦後の事故。

「将門の祟り」は、同じ話が千年間そのまま保存されてきたのではありません。

時代ごとに新しい出来事を取り込みながら、物語そのものが更新されてきたのです。

なぜ、大企業まで首塚を粗末にしないのか

そして現在の話です。

将門塚があるのは、東京都千代田区大手町。大手銀行や大企業の本社ビルが林立する、日本経済の中心地です。

その超一等地の真ん中に、千年以上前に死んだ武将の首を祀る塚が、今も残されています。

しかも、ただ残っているのではありません。

周辺の大手企業の関係者らで構成される「史蹟将門塚保存会」があり、毎年、神田明神による将門塚例祭が続けられています。

最新のオフィスビルが立ち並ぶ場所で、平安時代の武将の御霊が、令和の今も丁重に祀られている

このコントラストは、なかなか面白いですよね。

東京有数のビジネス街でさえ、経済合理性だけでは割り切れない歴史や信仰が残されている。少なくとも「そんな迷信は邪魔だから壊してしまえ」と簡単にはならないところに、人が長い時間をかけて場所へ与えてきた意味の重さを感じます。

「何があったか」は忘れても、「触るな」は残る

さて、ここが今日いちばんお伝えしたいところです。

冒頭で問いかけたように、多くの人は、真教上人のことも、大蔵省の仮庁舎のことも、「御霊信仰」という言葉すら知らないでしょう。

それなのに、

「将門の首塚だけは粗末にしてはいけない」

という感覚だけは、驚くほど広く共有されています。

これはとても興味深い現象です。

文化というものは、理由が正確に伝わらなくても、行動の作法だけが残ることがあるのです。

「なぜそうなのか」は次第に忘れられる。

でも、

「触るな」
「粗末にするな」
「敬意を払え」

という感覚だけは、次の世代へ伝わっていく。

今回のSNSで見られた大量の「そこはやめておけ」という反応も、その一例なのかもしれません。

そして将門の場合、その感覚は一朝一夕にできたものではありません。

中世の御霊信仰から、近代の大蔵省をめぐる祟り話、戦後の事故、そして現代の首塚保存まで。

いくつもの時代の記憶が、地層のように重なっているのですね。

コケ丸
コケ丸
つまり祟りが本当にあるかどうかより、「そこは粗末にするな」という感覚が、時代を越えて残ってきたことのほうがすごいんだな
よしたか
よしたか
そうともいえるね

最後に ― 怖がり方にも、歴史がある

将門は今、神田明神の御祭神の一柱として祀られ、除災厄除の神様として多くの人に信仰されています。

恐ろしい力を持つと考えられた霊を祀り、やがて人々を守る神として敬う。

祟る者から、守る神へ。

この転換こそ、御霊信仰の面白いところです。

大手町を歩く人の多くは、千年前の反乱も、中世の御霊信仰も、大正時代に何が起きたのかも詳しくは知らないでしょう。

それでも、「あそこは粗末にしてはいけない」という感覚は残っている。

人は出来事そのものを忘れても、そこで生まれた畏れや作法を受け継ぐことがあります。

そしてその作法もまた、時代ごとに新しい物語をまといながら変化していく。

将門塚は、東京のど真ん中に残された、そんな文化の記憶装置なのかもしれません。

よしたか
よしたか
以上、平将門の首塚にまつわるお話でした

おしまい。




 

【追記】
この記事を公開した直後に関東地域で大きな地震が起きました。翌朝のSNSでは早くも「将門の祟りではないか」という声が続出。中には震源地と将門ゆかりの土地を結びつけたり、「大仏を建てて鎮めるべき」と冗談を飛ばす人まで現れました。

もちろん地震と将門塚に因果関係はありません。けれど、人々が新しい出来事を瞬時に「将門の祟り」という古い物語へ組み込んでいく様子は、まさにこの伝承が今も生きていることを示していますね。(2026.8.23)
 

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榎本 よしたか
フリーランス歴20年の歴史好きイラストレーター。 歴史や哲学、幸福論をテーマに、現代の仕事や組織に通じるヒントを考えるブログです。 戦国時代、幕末、近代、そして古代思想まで。時代や国を越えて、人間の選択と意思決定の構造を見つめ直します。