月代(さかやき)はいつ生まれたか

こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ていて、ふと気になっていたことがあります。

あれ、戦国時代の男たちって、もっとみんな月代(さかやき)を剃ってなかったっけ?

月代とは、前のほうを半月形に剃って、後ろの髪をまとめる、あの武士っぽい髪型です。時代劇を見て育った身としては、あの姿が「戦国武士の標準装備」として頭に刷り込まれています。

だから、総髪に近い姿の人物が大勢出てくると、なんだか違和感がありました。今回の大河ドラマでは、豊臣秀吉も、織田信長も、徳川家康も、誰も頭を剃ってないのです。ネットでも違和感を口にしている方を幾人か見かけました。

でも調べてみると、この違和感は実は僕たちの側にある「思い込み」だったかもしれないのです。

コケ丸
コケ丸
えっ、じゃあ月代って、戦国時代に急に全員があの形になったわけじゃないのか?
よしたか
よしたか
信長や家康は肖像画では月代姿だよね。じゃあいつから月代になったのかみていこう

月代は、ずっと昔から「あった」

まず一つ、興味深い事実があります。月代という言葉自体は、平安時代末期の貴族、九条兼実の日記『玉葉』にすでに登場しています。1176年の記述に、平時忠の月代が「見苦しい」といったニュアンスで書かれています。つまり、平安時代にはすでに、一部の人の間では頭の一部を剃る習慣があったんですね。

ただ、それが後世の時代劇で見るような「完成形」として、最初から全国一律に定着していたわけではなさそうなのです。

資料を見ていくと、鎌倉時代の束髪、室町時代のたぶさや二つ折、安土桃山時代の中剃など、時代ごとにさまざまな髪型が並んでいます。武士の髪型は、戦国時代に突然あの形へ一直線に収束したのではなく、長い時間をかけてゆっくりと変化していったと見たほうが自然ですね。

月代の始まりは「かっこよさ」より「実用」だった

月代がなぜ生まれたのか。その最大の理由は「兜(かぶと)」にあります。

想像してみてください。重い鉄の兜をかぶり、命がけで戦場を駆け巡る武士たちの姿を。激しく動けば体温は上がり、頭部はものすごく蒸れます。髪の毛が密集していると、熱がこもって「のぼせ」の状態になり、意識が朦朧としてしまうこともあったそうです。

そこで、兜が直接当たる前頭部から頭頂部にかけての髪を処理し、通気性を良くしようとした。これが月代の始まりです。

モンゴル族や女真族などの大陸の騎馬民族にも前頭部を剃る習慣があったことから、常に兜をかぶる民族は同じ結論に達するのかもしれませんね。

つまり月代は、最初から「かっこいい武士の髪型」として生まれたのではなく、戦場を生き抜くための「冷却システム」であり、極めて合理的な「仕事道具」の一部だったんですね。

ここが面白いところで、僕らはつい髪型を「ファッション」として見てしまいます。でも昔の髪型には、機能や道具との相性が深く入り込んでいます。兜をかぶるから月代が生まれ、その実用がやがて身分のしるしや時代の標準になっていく。最初は合理性、あとから様式。歴史の中では、こういうことがよく起きます。

戦国時代の月代は「抜く」ものだった?

ここで、今回の「豊臣兄弟!」の演出にも関わる面白いお話があります。

実は戦国時代の頃まで、月代はカミソリで剃るのではなく、毛抜きで「抜いていた」という説が有力なんです。想像しただけで顔が歪んでしまいそうですが、当時は戦場での一時的な処置として、手近な道具で抜いていたんですね。

抜いた後は血がにじみ、頭皮は腫れ上がったと言います。そこまでして頭を冷やそうとした武士たちの執念には驚かされますが、毎日そんな痛い思いをするのはさすがに大変です。

ですから、合戦がない時期や、日常の生活を送っているときは、わざわざそんな痛い思いをしてまで月代を整えない人も多かったはず。戦国時代は「常に戦っている」イメージがありますが、実際には日常の時間も流れています。「平時には総髪で、戦のときに月代にする」というスタイルがあったと考えるほうが自然です。

そう考えると、ドラマの中で秀吉たちが髪を剃っていないのは、むしろ当時の「生活感」をリアルに映し出している演出だと言えるのかもしれません。これからの展開で月代姿の秀吉や信長が見られるかもですね。

コケ丸
コケ丸
一本一本抜くとか……想像するだに痛すぎる
よしたか
よしたか
そうだよね。抜かずに剃ればいいんじゃないの?って初めに言い出したのは信長だって説もあるよ。気が短く合理的な信長らしいエピソードだね

戦国で広まり、江戸で「日常」になった

この月代が、戦場の実用だけでなく、ふだんから整える髪型として広がっていったのが、戦国から安土桃山、そして江戸にかけての流れです。

ポーラ文化研究所の資料でも、安土桃山時代には中剃などの髪型が見られ、江戸時代に入ると月代を日常的に剃ることが庶民にまで定着していったとされています。戦乱が収まり、武士が「戦う人」から「役人(官僚)」へと役割を変えていく中で、月代はもはや兜の蒸れ対策ではなく、「大人の男ならこうあるべき」という社会的な記号、いわば現代のスーツやネクタイのような身だしなみ正装へと変化していきました。

僕たちが時代劇を見て「武士=月代」というイメージを強く持っているのは、江戸時代の約260年間という長い時間をかけて、そのスタイルが「完成された様式」として社会に深く根付いたからなんですね。

「後の時代の完成形」が前の時代に貼りつく

歴史を見ていて面白いのは、こういう「後の時代の完成形」が、前の時代にまでさかのぼって貼りついてしまうことです。

戦国武将と聞くと、甲冑、陣羽織、月代、ちょんまげというイメージが一気に浮かびます。でも、そのイメージのいくつかは、実際には長い時間をかけて整えられたものです。髪型もその一つで、「戦国武士=最初から全員あの形」というより、戦いの実用から始まり、しだいに定着し、江戸で日常化した流れの中でできあがったものとして見たほうが、歴史の実態に近いわけです。

だから大河ドラマを見ていて「なんで剃ってないの?」と感じた違和感は、悪い違和感ではないかもしれません。むしろそこから「自分が見ていた戦国像って、どこまで本当に戦国なのだろう」と考え始められる。髪型ひとつでも、歴史はかなり面白くなりますね。

平安末期から存在した月代という文化は、明治維新後の近代化政策により急速に衰退し、明治4年(1871年)の断髪脱刀令によって終焉を迎えました。日本の歴史におおよそ700年の長きにわたって形を変えながら存在していた文化だったんですね。

月代とツーブロック

最後に、少し脱線した話をします。

現代の男性の髪型に、側面をすっきり刈り上げて上の髪を残すスタイルがありますよね。ツーブロックと呼ばれるやつです。久保田利伸さんなんてカッコいいですよね。

前を処理して後ろをまとめた月代と、横を落として上を立てるツーブロック。並べてみると、頭のどこを残してどこを消すか、という発想がちょうど真逆になっていてめっちゃ面白いですね。

かっこいいの基準は時代によってここまで変わる。でも、頭のどこをどう見せるかに人がこだわり続けてきたこと自体は、ずっと変わっていないのですね。

月代は古くさい髪型ではなく、時代ごとの機能と美意識が刻まれた「当時の最先端」だった。そう思って大河ドラマを見直すと、また少し違った景色が見えてきそうです。

よしたか
よしたか
以上、月代の歴史にまつわるお話でした

おしまい。

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榎本 よしたか
フリーランス歴20年の歴史好きイラストレーター。 歴史や哲学、幸福論をテーマに、現代の仕事や組織に通じるヒントを考えるブログです。 戦国時代、幕末、近代、そして古代思想まで。時代や国を越えて、人間の選択と意思決定の構造を見つめ直します。