子どもを持つことは、いつから「個人の選択」になったのか ― 出生率の歴史から見る家族の変化
「産む・産まない」は、昔から自由だった?
こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。
「子どもを持つかどうかは、個人の自由な選択だ」
今の日本では、そう考える人が多いと思います。もちろん、産む・産まないは、本人が決めることですからそう考えるのは自然なことです。
でも、ふと思うのです。子どもを持つことが「個人の自由な選択」になったのは、いつからなのだろうか、と。
江戸時代の農民に「子どもを産むかどうかは個人の選択です」と言っても、おそらく意味が通じなかったでしょう。子どもは労働力であり、家を継ぐ存在であり、老後の支えでした。
産む・産まないを「選択」として考える発想自体が、かなり新しいものなのです。
もちろん、子どもを持つかどうかは最終的には本人の人生に関わる選択です。この記事は、その選択を責めるためのものではありません。むしろ、その選択がなぜここまで重くなったのかを、歴史から考えてみるものです。
江戸時代 ― 子どもは「家」と「労働」の一部だった
江戸時代の農村社会において、子どもは家族の一員であると同時に、実質的な労働力でした。田畑を耕し、水を運び、家業を手伝う。子どもの手は、文字通り家の経済を支えていました。
また、家を継ぐという意味でも子どもは不可欠でした。「家」は単なる建物ではなく、先祖から続く血脈と財産の単位です。跡継ぎがいなければ家は絶える。それは農民にとっても武士にとっても、避けなければならない事態でした。
そして老後。今のような年金制度も社会保障もない時代、老いた親を養うのは子どもの役割でした。子どもは「将来の保険」でもあったのです。
間引きという現実
ただし、江戸時代を「子だくさんで幸せな時代」として描くのは正確ではありません。
農村では、災害で飢饉がおきたり、貢租増徴(年貢が増えること)などで貧困が深刻なときには、生まれた子どもを育てられないという事態が起きました。そのとき行われたのが「間引き」です。生まれたばかりの子どもの命を絶つという行為で、「口減らし」とも呼ばれました。現代の感覚では残酷に思えますが、当時の農民にとっては残った家族が生き延びるための、苦渋の選択でもありました。
間引きは農村に広く存在し、労働力減少を恐れた江戸幕府は繰り返し禁令を出しましたが、根絶はできませんでした。「子どもを産む」ことと「育てられる」ことの間には、当時も大きな現実の壁があったのですね。この習慣の一部は明治時代まで続いていたと言います。
子どもを持つことが「喜び」である前に、「生存の問題」だった時代。そこから話は始まります。
明治以降 ― 子どもは「国家の力」になった
明治維新以降、子どもを持つことの意味に、新たな層が加わります。国家です。
富国強兵を掲げた明治政府にとって、人口は国力そのものでした。兵士を供給するためには男子が必要で、工場を動かすためには労働力が必要で、税収を維持するためには納税者が必要だったからです。子どもを産むことは、個人や家のためであると同時に、国家への貢献でもあるという意識が広まっていきます。
この延長線上で、特に戦時期には「産めよ増やせよ」という言葉が強く語られるようになります。女性は「銃後の守り」として子どもを産み育てることを、国家から期待されていたのです。
家制度も明治民法によって法的に整備されました。戸主を中心とした家の継承が制度化され、子どもを持つことは家族の問題であると同時に、法的・社会的な義務の色彩を帯びていきます。
子どもの死亡率という現実
ここで見落とせないのが、当時の子どもの死亡率の高さです。
明治時代の乳幼児死亡率は非常に高く、生まれた子どもの多くが幼いうちに命を落としました。だから多く産むことは、生き残る子どもを確保するための現実的な戦略でもありました。「たくさん産んで、生き残った子どもに賭ける」という感覚は、今の私たちには想像しにくいものですが、当時の親にとってはリアルな計算でした。
明治初期の乳児死亡率は出生数1000人に対し約250人。4人に1人が1歳未満で亡くなっていました。現在は1.8人まで劇的に低下し、約550人に1人の割合に改善しています。
大正・昭和初期 ― 増えた人口は、海外へ向かった
明治以降の近代化によって、日本の人口は急速に増加していきました。衛生環境の改善と医療の発達で死亡率が下がり、生き残る子どもが増えたからです。それ自体は喜ばしいことでしたが、国内の農地や仕事には限りがあります。
「人口が増えすぎて、食わせていけない」
これが大正から昭和初期にかけて、日本政府が直面した課題でした。その解決策のひとつとして政府や移民会社が主導したのが、海外移民です。
特に力を入れたのがブラジルへの移民でした。1908年に笠戸丸で始まったブラジル移民は、政府と移民会社が連携し、農村の過剰人口を組織的に送り出す仕組みとして機能していきます。移民した人々は、コーヒー農園などで過酷な労働環境に置かれたケースも多く、決して楽な道ではありませんでした。それでも国内に仕事も土地もない農村の次男・三男にとって、移民は数少ない選択肢のひとつでした。
1927年には海外移住組合法が制定され、移民事業はより組織的に進められていきます。戦前までに日本からブラジルへ渡った人の数は、累計で約19万人に及びます。
つまりこの時代、日本政府は「産めよ増やせよ」と言いながら、一方で増えた人口を国外へ送り出すという、相矛盾する政策を同時に行っていたのです。子どもを産むことは国家のためでしたが、生まれた子どもの行き場は国内だけでは足りなかった。人口政策の矛盾が、移民という形で噴き出した時代でもありました。
この時代の空気を知るうえで、石川達三の小説『蒼氓(そうぼう)』はとても参考になります。1935年の第1回芥川賞受賞作で、ブラジルへ渡ろうとする人々の不安や貧しさ、希望と諦めが描かれています。
教科書ではあまり大きく扱われないかもしれませんが、「増えた人口はどこへ向かったのか」という問いを考えるうえで、かなり重い作品だと思います。
戦後 ― 子どもは「希望」から「計画」へ
1945年の終戦後、日本では第一次ベビーブームが起きます。1947年から1949年にかけて、毎年260万人前後の子どもが生まれました。焼け野原から復興しようとする時代の、未来への信頼感が、この爆発的な出生数に表れていたのかもしれません。
しかし同時に、戦後日本は「産む人数を調整する」という発想を社会に取り込んでいきます。
1948年に制定された優生保護法(現在の母体保護法の前身)は、人工妊娠中絶を一定の条件のもとで認めました。これによって、意図しない妊娠を終わらせる手段が法的に整備されます。またコンドームなどの避妊具の普及も進み、家族計画という概念が広まっていきました。「明るい家族計画」と書かれた謎の自販機を子どもの頃見たことがあります。(意味はわかってませんでしたが)
「産めよ増やせよ」から「計画的に産む」への転換は、戦後の短い期間に急速に進んだのです。
第二次ベビーブームと「標準家族」の完成
1971年から1974年にかけて、団塊の世代が親になって生んだ第二次ベビーブームが起きます。この時期に完成したのが、「標準的な日本の家族」のモデルでした。
夫が会社員として働き、妻が専業主婦として家を守り、子ども二人を育てる。このモデルは、高度経済成長という社会構造に支えられていました。終身雇用と年功序列が安定した収入を保証し、企業の家族手当や住宅ローン優遇が家族形成を後押しし、地域や三世代の繋がりが子育てを支えていました。
いわゆる「普通の家庭」は、個人の努力だけで成立していたのではなく、会社・国家・地域という社会構造に支えられていたのです。
高度成長期 ― 家族は社会に支えられていた
この時代の子育てには、今とは異なるサポート構造がありました。
企業は社員に家族手当を支給し、社宅を提供し、時に保育施設まで用意しました。「会社ぐるみの家族支援」が機能していた時代です。また農村から都市へ移住した核家族の周囲には、同じ境遇の若い家族が集まる団地やニュータウンがあり、近隣との助け合いが自然に生まれていました。
子どもを持つことのコストは、今と比べれば相対的に低かったといえます。教育費はかかっても公教育が中心で、塾や習い事は今ほど必須ではありませんでした。住宅費は上昇していましたが、会社のサポートも手厚かったのです。
「子どもを持つのが当たり前」だったこの時代、出生率は2を上回っていました。それは個人の意識の問題だけでなく、社会の構造が子育てを支えていたからでもあったのです。
現代 ― 子どもは「個人の巨大なリスク」になった
では今はどうでしょうか。
2025年の日本の合計特殊出生率は1.13~1.14と、過去最低を更新する見通しです。「少子化問題」という言葉は毎年メディアをにぎわせますが、なぜここまで下がったのでしょうか。
答えは単純ではありませんが、構造的な変化は明らかです。かつて社会が分担していた子育てのコストが、ほぼ丸ごと個人(夫婦、あるいは時に一人の親)に転嫁されるようになったからです。
教育費は、家庭にとってかなり重い負担になっています。中学受験、高校、大学、場合によっては大学院まで。塾や習い事も「子どもの将来のために」という圧力の中で増え続けます。子ども一人を大学まで育てるコストは、数千万円に及ぶとも言われます。
住宅費は都市部を中心に高騰し、子育てに適した広い家を持つことのハードルが上がりました。保育所は不足し、育児休業を取りにくい職場も多く、非正規雇用の増加が将来の見通しを不安定にしています。
そして終身雇用と年功序列という、かつて子育てを支えた企業の仕組みは弱体化しました。「会社ぐるみの家族支援」は昔話になりかけているのです。
晩婚化と未婚化
出生率の低下に直結しているのが、晩婚化と未婚化です。
日本の出生の多くは結婚した夫婦の間に生まれます。婚外子の割合は2.4%程度と、欧米の割合(40~60%)と比べて非常に低い水準にあります。だから未婚率が上がると、出生率は直接下がります。
未婚率が上がっている背景にも、経済的な要因が大きく、正規雇用で安定した収入を得ることが難しくなった若い世代が、結婚という選択を先送りにする、あるいは、仕事も育児も抱えることへの現実的な不安が、結婚へと踏み切れない理由になっています。
また、価値観の多様化にともなって、結婚や出産を人生の前提と考えない人も増えてきました。
かつては、家を継ぐこと、子どもを持つこと、次の世代につなぐことが、かなり強い社会的な前提として存在していました。しかし今では、結婚するかどうか、子どもを持つかどうかは、より個人の幸福や生き方の問題として考えられるようになっています。
「産みたいけど産めない」という声と、「産むつもりがない」という声が、同じ時代に混在しているのが、今の現実です。
少し世界に目を向けると ― 出生率低下は日本だけではない
出生率の低下は、日本だけの現象ではありません。
世界全体の合計特殊出生率は、1950年代には女性一人あたり約5人でしたが、近年は2人台前半まで下がっています。多くの先進国がすでに人口置換水準とされる2.1を下回っており、韓国は近年0.75という日本よりさらに低い水準にあります。
参考に、G20の国々の合計特殊出生率を並べてみましたのでご覧ください。
| 国 | 合計特殊出生率 |
|---|---|
| サウジアラビア | 2.31 |
| 南アフリカ | 2.21 |
| インドネシア | 2.12 |
| インド | 1.96 |
| メキシコ | 1.89 |
| アメリカ | 1.63 |
| ブラジル | 1.61 |
| フランス | 1.61 |
| イギリス | 1.55 |
| アルゼンチン | 1.50 |
| オーストラリア | 1.48 |
| トルコ | 1.48 |
| ロシア | 1.42 |
| ドイツ | 1.36 |
| カナダ | 1.25 |
| イタリア | 1.18 |
| 日本 | 1.15 |
| 中国 | 1.01 |
| 韓国 | 0.75 |
※2024年のデータ。小数第3位以下は四捨五入。
なぜ世界的に同じことが起きるのか。人口学では「人口転換」という概念で説明します。
農業社会から工業社会へ、農村から都市へという変化の中で、死亡率が先に下がり、遅れて出生率が下がるという普遍的なパターンです。教育が普及し、女性の選択肢が増え、子どもを多く持つ経済的なメリットが薄れると、出生率は下がる。これは特定の国の問題ではなく、近代化が進んだ社会に共通して起きることです。
一方、中国は1970年代末から2015年まで、「一人っ子政策」という極端な形で出生を国家が管理しました。強制的な避妊手術や中絶が行われ、人権上の問題として今も批判されています。政策廃止後も少子化は止まらず、中国は今、日本と同じ課題を抱え始めています。国家が強制しても、出生率は思い通りにはならない。その現実を中国の経験は示しています。
日本の場合は、人口転換という世界共通の変化に加え、家制度の崩壊、終身雇用の弱体化、都市への人口集中、教育費の高騰などが重なりました。日本固有の文脈があるにせよ、出生率低下は「日本人の意識が変わった」という話に還元できない、構造的な変化なのですね。
最後に ― 子どもを持つことを、誰が支えるのか
歴史を振り返ると、子どもを持つことの意味は時代ごとに大きく変わってきました。
労働力として、家を継ぐ存在として、国家の兵力として、復興の希望として。そして今は、夫婦あるいは個人が背負う「巨大なプロジェクト」として。
かつて、子どもを持つことは家・地域・会社・国家という複数の主体が分担して支えるものでした。今はそれが急速に個人化しています。「産む・産まないは個人の選択だ」という言葉は正しいのですが、その選択を取り巻く構造が変わってしまったことも、同時に見る必要があります。
もちろん、昔の地域社会や会社ぐるみの家族支援を、単純に美化することはできません。
そこには助け合いがあった一方で、プライバシーのなさや同調圧力、会社や地域から逃れにくい息苦しさもありました。
現代社会は、そうした煩わしさから個人を自由にしてきた面があります。しかしその一方で、子育てや老後、生活の不安までもが、個人や家庭に重くのしかかるようになりました。
自由になった分だけ、支え合いの仕組みも細ってしまったということなのでしょう。
だからこそ、「なぜ産まないのか」と個人に理由を求める前に、「子どもを持つことや育てることの重さを、どこまで個人や夫婦だけに背負わせているのか」を考える必要があるのかもしれません
僕自身は、幸いにも2人の子どもに恵まれました。自分が受け取ってきた文化や歴史、暮らしの感覚を、次の世代にも手渡したいという思いもあります。
子どもを持つことが「完全に個人の選択」として語られるようになった時代に、社会はどこまでその選択を支えられるのか。歴史は答えを出してはくれませんが、問いを立てるヒントは与えてくれます。
おしまい。






