なぜ「いい人」ほど人間関係をこじらせるのか ― アドラー心理学の課題の分離
優しさとおせっかいは、どこで分かれるのか
こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。
今日はオーストリア出身の心理学者アルフレッド・アドラーのお話をしたいと思います。
人間関係で悩んでいるとき、たいてい自分では「悪気はなかった」と思っているものです。
困っている人を見ると助けたくなる人もいます。落ち込んでいる人がいれば励ましたくなるし、迷っている人を見ると、つい「こうしたほうがいいんじゃない?」と口を出したくなることもあると思います。
それって、一見すると優しさですが、単なる「おせっかい」かもしれません。
アドラー心理学を読んでいると、その「優しさ」が、時には人間関係をこじらせる原因にもなりうるのだと気づかされます。
病弱な少年が、心理学者になるまで
アルフレッド・アドラーは1870年、ウィーンのユダヤ人商人の家に生まれました。幼い頃からくる病を患い、4歳になるまでまともに歩けなかったと伝わっています。
兄は健康で活発だったのに、自分は病弱で思うように動けない。そうした経験が、後のアドラーの劣等コンプレックスや補償という考え方にも影響したと言われています。
医師になったアドラーは、やがてジークムント・フロイトのグループに加わります。フロイトは当時、「人間の行動は過去のトラウマや無意識の欲望によって決まる」という理論で心理学界に革命を起こしていた人物です。
しかしアドラーは、この考え方にどうしても納得できませんでした。
「人間は過去に縛られた存在ではなく、未来の目標に向かって自分を動かせる存在だ」
そう考えていたのですね。
1911年、ウィーン。決裂の夜
当時のウィーンは、ヨーロッパ随一の知的熱気に満ちた都市でした。世紀末の退廃と新しい思想への渇望が入り混じる中、哲学者・芸術家・科学者たちがリングシュトラーセの大通り沿いのカフェに集まり、夜ごと激論を交わしていました。フロイトたちも毎週水曜日、「ウィーン精神分析協会」の例会を開いていたのです。
その空気の中で、アドラーの違和感は少しずつ確信に変わっていきます。
1911年、アドラーはついに自分の考えを協会の場で発表しました。「人間を突き動かすのは性的衝動ではなく、社会への帰属と優越への追求だ」という主張です。
フロイトはこれを「まったくのナンセンスだ」と切り捨てたと言われています。この冷酷な反応にアドラーは自ら会長職を辞し、9人の仲間とともに協会を去ります。生涯、二人が和解することはありませんでした。
フロイトにどう思われるか、仲間にどう見られるか。それはフロイトたちの課題であって、アドラーの課題ではない。自分が正しいと思う道を、嫌われることを恐れずに選んだ。「嫌われる勇気」という著書が日本では有名ですが、この言葉は、アドラー自身の思想を端的に表現していると思います。
他人にどう思われるかより、自分がどう生きるかを選んだ人だったんですね。
「課題の分離」とは何か
アドラー心理学の中でも特に有名な考え方が、「課題の分離」です。言葉だけ聞くと少し固いのですが、要するに「それは誰の問題なのか」をきちんと分けて考えようという話です。
たとえば、友達が仕事で悩んでいたとします。するとこちらは、相手のためを思って、つい解決策を並べたくなります。
「その会社、もう辞めたほうがいいんじゃない?」
「こう言い返したら?」
「もっとこう動くべきだよ」
と。でも、ここでアドラーが問いかけてくるのは、「その問題を引き受けるのは、本当にあなたの役目なのか?」ということです。
仕事を辞めるかどうかを決めるのは、その人です。どこで踏ん張るか、どこで逃げるかを決めるのも、その人です。結果を引き受けるのが相手なら、本来それは相手の課題です。
こちらがどれだけ心配しても、代わりにその人生を生きることはできません。
ところが「いい人」であろうとする人ほど、この境界線を越えてしまいがちです。しかもその多くは、本人が気づかないうちに起きています。
アドラーが指摘する「やりがちなパターン」を、一つずつ見ていきましょう。
「いい人」がやりがちな7つのパターン
① 見返りを期待しながら優しくする
「これだけしてあげているのに」という気持ちが、気づくといつも心の中にある。本人は純粋に相手のためだと思っているのですが、その優しさには条件が隠れています。見返りのない優しさと、見返りを期待した優しさは、相手には意外なほど伝わってしまうものです。
② 頼まれてもいないのにアドバイスをする
友人が悩みを打ち明けてくれたとき、話を聞くだけでは物足りなくなって、つい解決策を並べてしまう。でも相手が求めていたのは、解決策ではなく「聞いてほしかった」だけかもしれません。アドバイスが多い人は、しばしば「話しにくい人」になっていきます。
③ 自分を犠牲にして相手に尽くす
自分のことは後回しにして、相手のために動き続ける。一見すると美しい姿ですが、長く続くと「こんなにやっているのに」という疲弊に変わっていきます。自己犠牲の上に成り立つ関係は、どこかで必ず歪みが出てきます。
④ 「あなたのため」と言いながら自分の考えを押しつける
言っている本人は心から相手のためだと思っています。でも「あなたのためだから」という言葉は、時として最も断りにくいプレッシャーになります。相手が求めていない場面でこの言葉が出てくるときは、自分の価値観を正当化したいだけかもしれない、と一度立ち止まってみる価値があります。
⑤ 相手の気持ちを先回りして決めつける
「きっとこう感じているはずだ」「こういうことを望んでいるに違いない」と、相手に確認せず判断して動いてしまう。思いやりから来る行動ですが、的外れなことが多く、相手は「なんか違う」と感じながらも言い出せなくなります。
⑥ 嫌われたくなくて本音を隠す
波風を立てないために、思っていることを飲み込む。相手に合わせ続ける。これは一見すると謙虚に見えますが、長く続くと「この人と話してもつまらない」という印象を与えることがあります。本音のない関係は、深くなっていきません。
⑦ 相手の問題を自分が解決しようとする
これが「課題の分離」の核心です。相手が困っているとき、その問題を自分ごととして引き受けてしまう。でも、その問題の結果を生きるのは相手です。相手の課題を奪うことは、「あなたには自分で解決する力がない」と無意識に伝えることにもなりかねません。
優しさの顔をした「支配」
相手の課題に踏み込みすぎる行為は、優しさであると同時に、どこかで「相手をコントロールしたい」という気持ちともつながっていることがあるとアドラーは言います。
もちろん、本人にそんなつもりはないんです。むしろ「助けたい」「支えたい」と本気で思っている。
でもその奥には、
「この人が失敗するところを見たくない」
「自分の言った通りにしてくれたほうが安心できる」
「ちゃんと助けた自分でいたい」
という、自分側の事情が混ざっていることもある。
つまり、相手のためのようでいて、実は自分の不安を処理しているだけ、ということもあるのです。
頼まれてもいないのにアドバイスする。相手の気持ちを勝手に決めつける。「あなたのため」と言いながら、自分の正しさを押しつける。
そういうことをしてしまうのは、必ずしも冷たい人ではなく、むしろ「いい人」と呼ばれやすい人のほうかもしれません。
見守ることは、放置ではなく信頼
では、課題の分離とはどういう態度なのでしょうか。
それはたぶん、相手を放置することではなく、相手を信じることなのだと思います。
困っている人がいたら、話を聞くことはできる。求められたら意見を言うこともできる。支えることも、寄り添うこともできる。
でも最後に決めるのは相手であり、その結果を引き受けるのも相手です。そこまでこちらが奪ってしまうと、支援ではなく介入になってしまう。
「あなたなら大丈夫」と信じて、相手が自分で考え、自分で引き受ける余地を残す。それは一見すると距離を置いているようにも見えますが、じつはかなり深い信頼なのではないでしょうか。
逆に言えば、相手の課題にずかずか踏み込むのは、「あなたには自分で解決する力がない」と、無意識に見なしていることにもなりかねません。アドラーが言いたかったのは、たぶんその危うさです。
「嫌われたくない」が、人間関係をこじらせる
もう一つ、この話に絡んでくるのが「嫌われたくない」という感情です。
相手の問題に踏み込みすぎる人の中には、実は「手を貸さないと冷たいと思われる気がする」「本音を言うより、相手に合わせたほうが関係が丸く収まる」と感じている人もいます。
でも、そうやって自分をすり減らしながら保っている関係は、長い目で見るとどこかで苦しくなっていきます。
アドラーが言う「嫌われる勇気」とは、わざと嫌われることではなく、他人にどう見られるかを基準に生きすぎないことだったのでしょう。
最後に
1937年5月、スコットランドのアバティーンで、講演旅行の合間の朝、ホテルを出て散歩に出かけたアドラーは舗道上で突然倒れ、救急車の中で心臓発作により息を引き取りました。67歳でした。
ヨーロッパがきな臭くなる中、ナチスの台頭を逃れてアメリカに拠点を移していたアドラーは、最期まで各地を飛び回り、自分の考えを伝え続けていました。故郷ウィーンから遠く離れた異国の石畳の上で、一人の心理学者は旅の途中に亡くなったのです。
フロイトに嫌われ、ナチスに焚書の対象とされ、それでも「人間は変われる、未来に向かって動ける」と言い続けた人が、最後まで動き続けて亡くなりました。
課題の分離とは、他人の目を気にせず、自分の人生を自分で引き受けることです。アドラーはそれを、言葉だけでなく生涯をかけて証明した人だと思います。
「いい人」であろうとすることは、悪いことではありません。でも、いい人であろうとするあまり、相手の人生にまで踏み込みすぎてしまうと、優しさは少しずつ重たくなっていきます。
優しさとは、何でもしてあげることではなく、相手が自分で立てることを信じることなのかもしれない。アバディーンの石畳の上で倒れた彼は、きっとそう思っていたんじゃないかと、僕は想像しています。
おしまい。



