「上から言われたのでやりました」が怖い理由 ― ハンナ・アーレントの警告
なぜ人は「考えずに従ってしまう」のか
こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。
「上から言われたことをやっただけです」
仕事をしていると、この言葉を聞くことがあります。不正が発覚したとき、ミスが重なったとき、誰かが傷ついたとき。言った本人に悪意はないようで、むしろ真面目にやってきた人が、そう言うことが多い気がします。
でもなぜか、その言葉を聞くたびに、背筋に冷たいものが走るのです。
その感覚の正体を言語化してくれた人物が、20世紀にいました。ドイツの思想家、ハンナ・アーレントです。
ユダヤ人思想家が、ナチスの戦犯法廷に立ち会った日
アーレントは1906年、ドイツのハノーファー近郊に生まれました。哲学者マルティン・ハイデガーのもとで学び、若くしてその才能を開花させますが、1933年にヒトラーが政権を握ると状況は一変します。ユダヤ人であったアーレントはドイツを脱出し、フランスへ、そして1941年にはアメリカへと亡命しました。
それから20年後の1961年、彼女は雑誌「ニューヨーカー」の特派員として、イスラエルで開かれたある裁判を傍聴します。
被告はアドルフ・アイヒマン。ナチス親衛隊の幹部で、ユダヤ人をアウシュヴィッツなどの強制収容所へ移送する業務を統括し、数百万人の死に間接的に関わったとされる人物です。戦後、アルゼンチンに逃亡していたところをイスラエルの情報機関に拘束され、エルサレムの法廷に立たされていたのです。裁判は同年末、有罪・死刑判決で幕を閉じます。
アーレントは、怪物のような人間を見るつもりで法廷に入りました。
しかし、そこにいたのは――。
「悪の凡庸さ」という衝撃
アイヒマンは、どこにでもいるような、ごく平凡な男でした。
背が高く、眼鏡をかけ、書類仕事をきちんとこなす几帳面なタイプ。法廷では「私はユダヤ人を憎んでいなかった。ただ命令に従っただけだ」と繰り返しました。
アーレントが驚いたのは、この言葉が嘘に聞こえなかったことです。
彼は残虐な人間ではなかった。イデオロギーに狂った狂信者でもなかった。ただ、与えられた仕事を効率よくこなし、上の命令を疑わず、自分が何をしているのかを深く考えることをしなかった。
アーレントはこの観察をもとに、のちに『イェルサレムのアイヒマン』という本にまとめ、こう名づけました。
「悪の凡庸さ(the banality of evil)」
この本は出版後、大きな論争を巻き起こしました。一部のユダヤ人コミュニティからは「虐殺を矮小化している」と猛烈に批判され、アーレントは長年、孤立を強いられました。
「思考の不在」が招くもの
アーレントが『悪の凡庸さ』で訴えたかったのは、アイヒマン個人への批判だけではありませんでした。
彼女が繰り返し問題にしたのは、「考えないまま従うこと」の危うさでした。
考えることをやめた人間は、自分の行為の意味を問わなくなります。「これは正しいことか?」「自分は今、何に加担しているのか?」という問いを手放した瞬間、人は組織の歯車になる。そしてその歯車が、巨大な悪を動かすことがあるんですね。
現代の組織に潜む「アイヒマン性」
ここまで読んで、「でもそれはナチスの極端な話だ」と思う人もいるかもしれません。
もちろん、ナチスの犯罪と日常の会社組織を同列に置くことはできません。それでも、「考えずに従うこと」が人を危うい場所へ連れていくという構造には、無視できない共通点があります。
・数字の目標に追われて、顧客への影響を考えることをやめる。
・上からの指示だからと、おかしいと感じながら実行する。
・会議で誰も声を上げないから、自分も黙っている。
・「決めたのは自分じゃないから」「やったのは自分じゃないから」と、判断と行為を切り離し続ける。
これは、どこかの組織で今日も起きていることではないでしょうか。
アイヒマンが特別だったのではない。「考えることをやめやすい環境」が人間を変えていく。アーレントが見たのは、そういう構造でした。
「複数性」という考え方
アーレントはもう一冊、重要な著作を残しています。主著『人間の条件』です。
そこで彼女が強調しているのが「複数性(plurality)」という概念です。世界には、まったく同じ人間は存在しない。一人ひとりが異なる視点を持ち、異なる言葉で語る。その「違い」こそが、人間が共に生きることの前提だとアーレントは言います。
そして、人が他者と共に何かを起こす「活動」ができるのも、この複数性があるからこそです。全員が同じ方向を向き、誰も疑問を持たず、異論が消えていく組織は、この複数性を失いつつある状態といえます。
アイヒマンが象徴したのは、個人の思考停止だけでなく、複数性が失われた組織そのものでもありました。
逆に言えば、健全な組織とは「違う意見が言える場所」でもあります。誰かがおかしいと感じたとき、その感覚を口にできるかどうか。それがそのまま、組織の健康度につながっているのかもしれません。
では、どうすればいいのか
アーレントは、解決策を明快には示しません。彼女の哲学は、答えを渡すより「問い続けること」を促すものだからです。
ただ、彼女の言葉からひとつのヒントを引き出すとすれば、「自分の言葉で考える習慣を手放さないこと」だと思います。
指示を受けたとき、一度だけ立ち止まる。「これは何のためか」「誰かが傷つかないか」「自分はこれを正しいと思うか」。その問いを飛ばして手だけ動かしていると、気づかないうちに、自分が何かの歯車になっている危険がある。
組織の空気に飲まれず、自分の頭で考え続けること。それは不効率に見えるかもしれないけれど、アーレントに言わせれば、それこそが人間としての最低限の責任なのでしょう。
「考えることをやめない」というのは、特別な哲学者だけの話ではないと思います。
もし、忙しい日々の中で思考の不在を感じたなら、今やっている作業に対し、「これは何のためだろう」と一瞬立ち止まて考えてみるはいかがでしょうか。アーレントの言葉は、そのきっかけになるかもしれません。
おしまい。





