なぜ人は「自分で選ぶこと」から逃げたくなるのか ― サルトルが見抜いた自由の重さ
「しょうがなかった」は、本当にしょうがなかったのか
こんにちは。歴史好きイラストレーターの榎本よしたかです。
「上司がそう言ったから」
「会社の方針だから」
「みんながそうしていたから」
仕事がうまくいかなかったとき、人はこう言いたくなりますよね。そして言った瞬間、少し楽になります。でも心のどこかに、小さな引っかかりが残るってこと、ありませんか?
その引っかかりの正体を、20世紀の哲学者サルトルはかなり厳しい形で言語化しました。
自由を「しんどいもの」として見た哲学者
ジャン=ポール・サルトルは1905年、パリで生まれました。幼くして父を亡くし、祖父の家で育ちます。読書好きな少年は哲学の道へ進み、その後同じく哲学者であるシモーヌ・ド・ボーヴォワールと出会います。ふたりは婚姻関係ではありませんでしたが、生涯のパートナーとなり、思想的にも深く影響し合いました。
第二次世界大戦中はナチス・ドイツによるパリ占領を経験し、フランス軍に徴兵されてドイツ軍の捕虜になった時期もありました。解放後、サルトルは「実存主義」という思想を世に広め、戦後フランスのスター知識人になります。
1964年にはノーベル文学賞の受賞が決まりましたが、「賞を受け入れることは、制度に自分を位置づけることを意味する」という理由でこれを辞退。ノーベル委員会が「辞退は認められない」と押し切ろうとしましたが、サルトルは最後まで首を縦に振らず、自らの意志でノーベル賞を辞退した最初の人物となりました。自分のあり方を、最後まで自分で決め続けた人だったんですね。
また、盟友だった作家アルベール・カミュとの関係も有名です。ふたりは戦後フランスの象徴的な知識人コンビとして知られていましたが、1952年に政治的立場をめぐって公開論争となり、以降は絶縁状態に。カミュが交通事故で亡くなった1960年、サルトルは追悼文を書いています。思想をめぐる喧嘩も、人間同士の話だな、と思えるエピソードです。
「実存は本質に先立つ」―そして「自由の刑」へ
サルトルの思想でいちばん有名な言葉は「実存は本質に先立つ(existence precedes essence)」です。
少しわかりにくいので、まず「物」で考えてみます。たとえばハサミは、「切るための道具」という目的(=本質)が先にあって、それに合わせて作られます。本質が先、存在が後。
でも人間は違う。生まれた瞬間に「あなたはこうあるべき人間だ」という設計図はありません。まず存在して、そのあとに自分で自分を作っていく。これが「実存は本質に先立つ」の意味です。
ここからサルトルが引き出したのが、「人間は自由の刑に処されている」という言葉です。「刑」というのがポイントで、自由は贈り物ではなく、逃げられない条件だとサルトルは言います。何もしないことも、誰かに従うことも、全部自分が「選んだ」ことになる。
たとえば「転職を考えているけど、なかなかできない」という状態。サルトルから見れば、「転職しない」という選択を毎日し続けているだけだ、ということになります。「できない」のではなく「していない」。この差は、聞きようによってはきつい話ですが、それだけ「選ぶ力は自分にある」という見方でもあります。
自己欺瞞(バッド・フェイス / mauvaise foi)
「自由の刑」を受け入れるのはしんどい。だから人間は、自分が選んでいるという事実から目を背けようとします。サルトルはこれを「自己欺瞞(バッド・フェイス / mauvaise foi)」と呼びました。
この概念を説明するために、サルトルはある具体的な場面を使っています。パリのカフェで働くギャルソン(給仕人)の話です。
そのギャルソンは、きびきびとした動作でテーブルを回り、注文を受け、料理を運ぶ。その身のこなしは、まるで「完璧な給仕人」という役割を演じているかのように、少しわざとらしいほど徹底していた。サルトルはそこに引っかかりを感じます。
この人は「自分はギャルソンだから、こう動かなければならない」と思っている。でも本当は、ギャルソンであることを選んでいるのは自分自身のはずだ。役割を「自分の本質」として受け入れることで、「選んでいる自分」から目を背けている。これがバッド・フェイスだ、とサルトルは言います。カフェのギャルソンを観察しながら哲学を深めていたというのが、いかにもパリらしい話ですよね。
さらにサルトルは「地獄とは他者である(L’enfer, c’est les autres)」という言葉も残しています。これは戯曲『出口なし』の中の台詞ですが、「人は他者の目線の中に閉じ込められるとき、もっとも自由を失う」という意味合いが込められています。「周りがどう思うか」が行動の基準になってしまうとき、人は自分の選択を見えなくする。バッド・フェイスの深いところにあるのは、他者の視線への恐れかもしれません。
仕事の中にある「小さな自己欺瞞」
このバッド・フェイス、現代の仕事の場でも普通に起きています。
「うちの会社ではそういう文化だから」
「前任者からの引き継ぎでずっとそうやってきたから」
「チームの空気がそうなっているから」
これらはどれも、「自分が選んでいる」という事実を、状況や他者のせいにすることで消している言葉です。サルトルの言葉を借りれば、全部バッド・フェイスになります。
もう少し身近なところで言えば、「向いていないかもしれないけど、とりあえず続けている」という状態も、サルトルなら「それもあなたが選んでいることだ」と言うでしょう。続けることを、惰性ではなく選択として意識できるかどうか。そこに大きな差があります。
SNSの「いいね」を気にしながら投稿する、評価面談で本当に思っていることを言えない、会議で発言したいのに黙ってしまう。これらも全部、「他者の視線」を基準に自分の選択を曲げているときに起きていることです。サルトルが言った「地獄とは他者である」は、他人が嫌いだということではなく、他者の評価軸の中に閉じ込められてしまうことへの警告だったのだと思います。
重さを受け取った先に
サルトルが言いたかったのは、「自由だから偉い」とか「強くあれ」という話ではないと思います。
「選んでいるのは自分だ」と気づくことが、まず出発点になる。それだけで、仕事に対する向き合い方は少し変わります。
今日もし、仕事や家庭で「しょうがなかった」と思いたくなる瞬間があったとします。きっとこれからも来るでしょう。でもそのとき、「本当にそうか?」と一度だけ立ち止まってみるのはいかがでしょうか。
その一歩が、バッド・フェイスから抜け出す入口になる。サルトルが厳しい言葉を使ったのは、責めるためではなく、その問いを人に返したかったからだと思います。
自由の重さを引き受けることは、しんどいことです。でもサルトルは、その重さの中にこそ、自分の生を引き受ける余地があると考えていたのだと思います。
「選んでいる」と気づくことは、怖いことでもあります。でも同時に、そこからしか始まらないことがある。それがサルトルの、最後のメッセージのように思えるのです。
おしまい。
(2026/04/12 20:04:15時点 楽天市場調べ-詳細)





